ユーリィの本性
惨状を見守っていた金色の瞳が不意に窄められた。
もはや動くことのない女の指が動いたからだ。弱々しく大地を掻き、乾いた荒土を掴む。腕を伸ばし、身体を起こし、ユーリィは顔を持ち上げた。
「かっはッ、っは……っは……っ……あぁ」
呼吸もままならない喘ぎ。ふらつき、よろけながら、立ちあがる。
眼球は焦点に惑い、鼻孔と口角からは血がしたたる。引き裂かれたスカートの切れ間から覗く黒のスーツパンツに覆われた足はがくがくと震えている。
異常だった。
さきの若竜の殴打も尾の叩き上げも、何より最初に受けた尾の薙ぎ払いですら、人の身など一撃で壊す致命の暴力だった。だのに、今にも崩れ落ちそうなほどに危うい姿ながら、ユーリィは生きていた。
揺らいで座らぬ首を強引に若竜へと据え、黒い瞳は竜の姿を虚ろに映していた。
震える右手が持ち上がり、乱暴に胸元をまさぐるも、足らずに首や乳房までもまさぐったが、やがて右手がダラリと垂れた。
しゃがれ声で紡がれる言葉がユーリィの耳から脳へと満ちていく。
『竜に抗えば悦び……害せば……殺せば……くれてやる。……全て根絶やせ、彼奴等を皆殺せ!』
ユーリィは熱い、熱い息を吐いた。次第に呼吸が荒く、大きくなっていく。
よろける足で一歩を踏み出した。続けて、一歩……二歩、三歩。歩みは止まらず、せわしくなって、次第に駆けて、足を前に出す度に速度は増していく。
遂には、若竜を目掛けて、一直線に疾駆していた。黒い獣と見紛うほどに低く、疾く。
「ううううああああぁっ!」
目前の敗北、確定した破滅などは意に介さず。
胸の奥で猛り叫ぶ情念を、腹の奥で狂う疼きを、剥き出しにユーリィは咆えた。
とうに手から龍刀を失っていた。頼みとした武具は一つも持ちえない。策も考えも無い。講じられる手立ては、もう何も無い。
それでも。
若竜を至近に捉え、拳を振り上げたユーリィに何の躊躇いもなかった。上気する頬を震わせ、灼熱の息を吐き、若竜の首元に拳を叩き付けた。
凄まじい打撃音に空気が震える。
間髪入れずに二撃目。次いで三撃目。更に、四撃、五撃……連打は止まない。
「あッ! ああッ! ああッ!」
必死というより、タガの外れた狂態でしかなかった。
裏返った叫びを上げ、渾身の力で目の前にある鱗の壁を一心不乱に殴って、蹴った。人ならば胸板を潰して、骨を粉々にする打撃でありながら。
それを若竜は平然と受け入れていた。ユーリィの為すがままを見守り、喉をごくりごくりと鳴らしていた。
まるで効いていない。
そんなことはユーリィにも分かっていた。
不意を衝くならまだしも、受ける姿勢を取っている竜に人の拳打が効くはずがない。でも、こうするしかない。少しでも、若竜が悦ぶ痴態を見せて、慰み者にされて、コディや町の住民達が逃げる時間をつくるしかない。
それ故の愚行。
……いいえ、違う。ユーリィは否定した。
『竜に抗えば悦びを、害せば快楽を、殺せば絶頂をくれてやる。これを解かれたくば彼奴等を根絶やせ! 皆殺せッ!』
平静も冷静も不要となって、はっきり聞こえる、しゃがれ声の言葉に身も心も任せて思う。これが本性なのだ、と。
なぜなら今、ユーリィは悶えるほどの愉悦に浸っていた。鱗を殴る感触に脳が痺れ、背筋に快感が走り、身体が、心が、跳ぶように悦ぶ。
これを醜悪だと軽蔑する理性はもう無い。
快楽の奔流にもみくちゃにされながらも、絶対に絶頂へと辿り着けはしない。満足することはない。この呪縛から解かれることはない。
――竜を殺せないから。
殴打の連打が更に加速する。ユーリィは叫んでいた。叫びながら若竜に拳を、蹴りを叩き付ける。
「私を、こんなにッ! してッ、おいてッ! なぜっ、なぜッ! 私にっ、先見を! 与えてッ、くださらっ、なかったのっっ!?」
ユーリィを中心に愛憎入り混じった気迫が渦を巻いた。
最大限に捻った腰が軋んだ。一歩踏み出した足が大地を震わせる。加えて、全身の重量と筋肉の力を乗せた、全力の振り切る拳。
「お父様あぁッ!!!」
ユーリィの拳打が若竜の躰に届くと同時だった。
若竜は身体の鱗を騒めかせ、胸元の筋肉が急激に膨張させた。衝撃の瞬間をずらされ、押し返され、ユーリィの拳は呆気なく弾かれた。
無様にのけ反る姿すらも、若竜は熱心に見つめ続けた。裂けた口をゆっくり開いて、掌を広げた右前脚をユーリィの上に落とした――。
*
ユーリィは僅かながら意識を失っていたようだった。
左頬と右頬に異なる感触、狭くて薄暗い視界、横面や胸、腹を覆う圧迫感。
自身が若竜の足裏と地面の狭間にいることを気付く。おそらくは叩き伏せた若竜の前脚が身体を踏み付けにしたままなのだろう。
両手の先や下半身の自由は利くものの、腕や身体、頭はまるで動かない。身をねじっても、足を踏ん張らせても、びくともしない。蹴り足も空を切るばかりだった。
「やっ、ぱり、……よ、ね。……でも、これ、で、わたッ」
生の隙間、掠れた呟きは中断させられた。踏み付ける力が増した。
「っ、っっっ、ッぅ、っッッッッッッッッッッッッッッッ!」
圧し潰されていく。
頭や胸、腕の骨が悲鳴をあげる。唇が無意識に開き、酸素を求めても吸えない。小さく細かに求め、ようやく得られる僅かな吸気。身体が内から弾けそうな感覚。意識が途切れる間際にふわりと圧力が弱まる。
生じた隙間に、肺は喉は口は外気を無様に懸命に取り込もうと働く。か細い意識の糸は手から離れない。微かに繋ぎ止めた呼吸と命を嘲笑って、再び強まる圧力。
「っァッァァァッァァァァァッァァァァァァッッァッ」
声ではない。胸の内から無理矢理に押し出される空気の音。
また、同じ苦痛。同じ絶望。同じ恐怖。
何かを求め、舌が突き出る。
骨の軋みは限界に達していた。
致命の一線へとじりじりと追いやられていく。
死は目前ながらも。それは極めてゆっくりで、悪辣な加減がなされている。
ユーリィの生存を確かめているのか、若竜の脚裏はイヤらしく蠢く。
強く、弱めて。
強く、強く、弱めて。
苦痛を長引かせるために、若竜が悦びを長く感じるために、最後の雫を搾り出すように、丁寧に丁寧に力を加えられている。
圧殺寸前、窒息寸前の生存を続ける苦しみのなか。
肉が肌を破いて飛び散る直前。骨が若竜の力に屈する直前。
それらが与える苦痛のなか。最後となるであろう憐れな喘ぎのあと。
この結末を受け入れている自分にユーリィは満足して、滲んで、歪みつつある視界を閉ざした。
……その直後だった。
ユーリィの身体から圧し潰す力が消えた。
これが死なのかと思ったと同時に咳込んだ。身体が元の働きを取り戻そうとするものだと知る由もなく。咳込み続ける。無意識に身体を丸め、呼吸を再開させる。
やがて、咳込む理由が土埃を吸っているからだと気付く。
次いで髪や肌が荒々しくなぶられる感覚。スカートの裾がバタバタとはためく音。
いつのまにか自身が暴風の只中にいることに気付く。
薄っすら開けた目は土埃が乱舞するさましか映さなかった。訳も分からぬまま、風に激しく掻き混ぜられた。
風の収まりを感じて、軋んで痛む身体をユーリィは起こした。
「なぜ――」
絶句した。
その問いは、自分が生きていること、若竜が消えたこと。二つに向けられたものだった。
ユーリィは訳も分からずに、すっかり鉛色に変った空を見上げるしかなかった。