最後の賭け
爆発の効果すら確認せずに、ユーリィは一目散に逃げ出していた。
まさに遁走だった。
それはユーリィの手に若竜と闘う手段が残されていなかったからに他ならない。
逃げて目指す先は、未だ多くの武具を収めたままの背嚢。先ほど、転倒した若竜に止めを刺す武具を取りに――竜息吹の前兆を見て、大盾を手に取らざるを得なかったが――戻っていた位置へとひた走る。武具があれば、まだ抗える。まだ闘える。その一心だった。
視線の先に背嚢を捉える。ユーリィの快足であれば、数秒もすれば辿り着ける距離。
ただ、急な暗天。何かが一瞬だけ空を覆う。
跳ね飛んだ若竜が駆ける者を楽々と飛び越え、宙で身を翻して背嚢の前に降り立った。
ユーリィは急停止を強いられた。土埃を舞い上げながら、若竜と対峙する位置でなんとか止まりきり、見上げて睨む。
無表情で若竜は応じ、何の前触れもなく、あまりに気安く、背後を尻尾で払った。背嚢が薙ぎ倒された。派手な音を立て、中身が地面にぶちまけられ、散乱した。
「……ッ!」
ユーリィは唇を噛んだ。
若竜は手を緩めることなく、追い打ちをかける。大きく羽を広げ、威力十分に咆えた。凶暴な音の衝撃をユーリィはまともに浴びる。届いた波動が身体を、心を強烈に揺さぶり尽くす。ユーリィの内が「やっぱり」との思いで塗り潰されていく。
万事休す。
やっぱり、一人ぽっちでは勝負にならない。やっぱり、本気の竜を前にしては抗うことすらままならない。だのに、ユーリィは若竜の一連の行動が腑に落ちないでいた。
なぜ、わざわざ先回りをしたのだろう。
なぜ、追い縋って背後から襲わなかったのだろう。
なぜ、立ち塞がるだけではなく、背嚢まで薙ぎ倒したのだろう。
小さな疑念を繰り返した末、やがて直感的に思い至った。
――この若竜、まだ遊んでいる? 本気じゃない? さっきの竜息吹も力を誇示したかっただけ?
咄嗟にユーリィは表情を引き締め、目頭に力を込めた。大げさに胸を反らし、若竜を不敵に睨め上げた。
「お前、それで勝ったつもり? その程度で私が絶望して、お前に膝を折ると思って!?」
突然、嘲りを込めた強気な叫びを発した。
圧倒的な劣勢にあっての挑発は、負け惜しみ同然の滑稽さがあった。
ユーリィの言葉を若竜が理解しようはずも無かったが、態度から意味する所を察したのだろうか、口端から燻っていた白煙が俄かに勢いを増した。
「私の心を折って、その無様を眺めようとしたのでしょうけれど、お生憎様! 私はお前なぞ怖くありません! お前を悦ばせてやる気は毛頭ありません!」
尚も声を張り上げながら、ユーリィは自嘲する。若竜の幼さに付け入ろうとする荒唐無稽さ、馬鹿馬鹿しさに。愉しみ優先、遊び半分で、本気になり切れない幼い気性を煽り立て、誇示したくて堪らぬ竜息吹を誘う。
作戦などとは言えない。策と呼ぶにしても、あまりに酷い苦し紛れ。
百万の一つところではない。算盤では到底勝ち目を弾けない。運を天に任せるふざけた博打でしかなかった。浮かびかけた失笑を噛み潰した。
「さぁッ! かかってきなさいッ! それとも、お前は私を脅すことしか出来ないの!?」
遮二無二で煽り、叫んだ直後だった。
若竜が長い首をくねらせ始めた。口からゴボリ、ゴボリと篭った音を漏らし始めた。
竜息吹の前兆とされる行為だった。
――36号の患者が声を張り上げている。今日は彼にしか見えぬ何者かと議論をしているようだ。
激しい口調で『息吹の素』、『危険な分泌物』、『唯一の弱点』が何やらと捲し立てる。それらを■■■■■■(黒く塗り潰されている)という名の議員が利用を促したことへの反論をしているつもりらしい。他の患者のように病的な妄想や論理の破綻が無いことにあらためて驚くも、かつてはどこぞの大学で教鞭を取っていた聞き、妙に納得をする。今日は久しぶりに会話が成立した。数日前に娘を名乗る女が面会に訪れていたことを訊ね、凄まじい剣幕で罵り返される形ではあったが……。
1833年4月9日 オルミンデール精神病院A棟 診療日誌――
くねっていた若竜の長い首が静止する。
ユーリィはスカートの中で下肢を緩ませ、脱力させた。でっち上げた気勢をそのままに来るべき時に備える。静かに、密かに、来るべき身体の反発に応えるための態勢を整える。
間もなく、きっと、もうすぐだから、と急く気持ちをなだめつつ、変わらず胸を反らし、竜を睨み続ける。大きく打つ鼓動が身体を微かに揺らしている。抑え込むため、深く静かに息を吸い、吐いた。
つと、若竜の胸元に不自然な膨らみが盛り上がった。
胸元から首へ。ゴボリゴボリと音をたてながら、瘤が首を伝って頭部に向かい昇り始めた。
闘志がユーリィの瞳に煌めいた。
バネを収縮するように大きく身を屈め……緊張で引き絞った力を、全身で一気に弾いた。銃弾の如く、飛び出し、駆ける。後先を考えない壊れた全力疾走。ぐんと迫った若竜の手前で大地を蹴り、跳躍した。
ベルトバッグと腰の間から、小振りな鋭い輝きを引き出す。
それは、先程までコディが使っていた龍刀。さきの立ち回りのなか、抜け目なく拾い、隠し持っていた正真正銘、奥の手だった。無論、武具として若竜への攻撃として足らぬことは承知の上だ。
ただ、あの首を昇る瘤に斬り付け、龍刀の切っ先が竜息吹の素たる恐るべき分泌物に届いたのならば、起死回生の一手となり得る。
若竜の頭や首、胴体だけに留まらず、ユーリィすらも木っ端微塵に吹き飛ばすほどの危険な爆発が生じる。
しかも、分泌物を高圧噴出する砲台と化すために、首を固定する形で若竜の頸椎は組み合わされているはず。捨て身の攻撃への対応、ましてや龍刀の一閃を躱すことなど出来やしない!
これこそがユーリィの思いついた苦し紛れだった。
勝負の賽は、自分に贔屓したとユーリィは確信する。しなる右腕の先端で刃が閃いた。龍刀の切っ先が瘤に至る直前。ユーリィの目元が微かに緩んだ。
最後の最後。出来損ないの自分に竜を狩る機会を与えてくれた青年に感謝した。
しかし、龍刀は空を切った。
「え」
若竜は首を背後に反らせ、龍刀を易々と避けていた。
――有り得ない、有り得ない! 頸椎を固定しなければ、竜息吹は絶対にっ!
受け入れ難き魂の叫びも、必殺の一撃が瘤に届かなかった事実を打ち消すことはない。
捨て身の黒い銃弾は不発に終わった。
失意のまま、無様に若竜の首に衝突する。弾き返され、落下するさなか、首を昇りきった瘤を受け入れた頬は大きく膨らんだ。
げげぇぇぇぇぇぷっ!
若竜はげっぷをした。
生臭い息を吐きかけられ、ユーリィは唖然とした。
――まさか……全部、読まれていたの? だから、竜息吹を偽って、私を揶揄った……!?
驚愕を滲ませた黒色の瞳に、金色の瞳は応えるわけも無く。
代わりに若竜は凄まじい疾さで身を捻った。落ちていく無防備なユーリィ目掛け、右前脚を上段から振り下ろし、全力で振り切った。
「がッ……」
ユーリィを叩き潰さんとする一撃だった。
そのまま大地に激しく打ち付けられた身体は、痛んだボールの如く鈍く弾んで、僅かに宙を漂い、再び地面に引かれていく。
若竜はそれを許さなかった。
流れるような身のこなしで巨躯を素早く後方へと回転。直ぐに竜躰を追ってくる尾が下方からユーリィを襲い、激しく叩き上げた。
人の形が宙を無茶苦茶に回転しながら舞い飛ぶ異常な光景。それも直ぐに墜落、地面との激突を経て、終わった。舞い上がった土煙が、生気なく転がったものを申し訳程度に覆っていた。
若竜はその光景を眺め、満足そうに喉をごくりごくりと鳴らしていた。