もう、勝てない
『竜が本気で仕掛けてきたら、私達に勝ち目は無くなります。竜が本気となった証、口から白煙や火が漏れ出す前に、勝負を――』
警告されていた言葉がコディの胸の内で冷たく響く。
あのユーリィにして、敗北を断言させる状況が目の前にあった。
ゴボリゴボリという奇妙な音と共に、不自然な溜りが長い首を昇っていくのが見える。口から漏れる白煙の勢いが増し、炎が絡まる。大きな口がゆっくり開き、歪んだ。
コディは若竜が哂ったと、はっきり分かった。
「私の後ろに隠れてっ! 息を止めてください!」
急に響いた鮮烈な声。
コディと若竜の間に割って入った黒い影。
担いだ巨大な板を地面に突き立て、コディの視界から若竜の姿を遮った。
板のゴウンと響く鈍い金属音と同時に、視界全てが恐るべき真紅に塗り潰された。灼熱の奔流が満ち、業火が踊り狂う。
凶悪なる竜息吹がコディとユーリィを飲み込んでいた。
僅かに七秒。
命を燃やし尽くすには十分な時間を経て、光景は一変していた。
息吹を浴びせかけられた大地はぶすぶすと煙を立ち上らせた焦土に変わり、岩も石も赤黒く燃えながら形を崩していた。
地獄が現実に顕現した様相だった。
全てが焼け崩れた世界にあって、ユーリィが打ち立てた巨大な板だけが形を残していた。代わりに板の表面に並べられた鱗状の覆いが焼け焦げ、真っ黒に変色していた。
「ウーッ……ウーッゥぅぅぅぁ、あ熱ッ、熱ッ、あっツううううううう……」
あまりの熱痛に身動ぎすらできぬコディが苦悶の呻きを漏らす。ユーリィも荒い息のまま、膝を突き、板を支える姿勢から動かない。遮れずに伝った熱に焦がされた二人の衣服からは白煙が燻っている。
この巨大な板――大盾が竜息吹を二つに割り裂き、後筋に身を隠した二人を生き長らえさせていた。コディは精一杯の苦笑を作った。
「ユ……リィさんも人が悪い。竜息吹を防ぐ手段があるなら、まだ勝負は」
「逃げてください。もう、勝てない」
被せかけられた否定は悲観に満ちていたが、コディは震えながらも食い下がる。
「ででも、竜息吹は日に二、三度が限度と聞きます。それさえ防ぎきれば」
「この盾は使い捨てです。だから、もう次は無」
ユーリィの声を遮って、大盾が重く激しい悲鳴をあげた。悲鳴の跡は大盾に歪みという形で残された。横薙ぎに返ってゆく若竜の尾の仕業だった。
「本気になった竜の脅威は息吹だけではありません。まだ若竜が盾を警戒しているうちに逃げてください。ここは私が抑えます」
説得の声が再び衝撃に揺れた。
今度は盾を打った尻尾の痕が大盾の裏側からもはっきりと分かった。限界は間近だった。それでもコディは逡巡した。
「でっでも、僕一人でなんて」
「黙りなさいっ! いいから、早くッ! 走ってッ!!」
ユーリィらしからぬ絶叫は、半ば悲鳴のようだった。
突き放された子供の表情でコディは二歩、三歩と後退り、身を翻した。
走り去る気配を背中で感じながら、ユーリィは尾の三撃目を受けたタイミングで盾を構え、前に飛び出す。目を瞑り、若竜を目指して全力で突っ込んでいく。
歯を食いしばる。悔しさで唇が震えた。
――あの人は私の騎士じゃなかっただけ。百万に一つの賭けなんて、そんなもの。
手を伸ばし、すり抜けた願いを諦めるため、貶める。だのに、裏腹な想いが胸を駆け巡る。
役立たずの私が必要だと言ってくれた人だったのに。
こんな私と一緒にずっと闘ってくれると言ってくれた人だったのに。
あの方と同じく、誓った決意のために過酷な闘いに身を投じる人だったのにっ!
「ああああああああああああああああああッッ!」
慟哭とも気合とも分からぬ叫びがユーリィの口を衝いた。
全速力まで駆け上げた勢いを乗せた強烈な盾突撃を若竜に食らわせる。
「うぁッ」
しかし、若竜は揺るがず。
逆にユーリィが岩壁に突っ込んだも同然の強い衝撃を受けてのけ反った。
後ろによろけた右足でかろうじて踏ん張りきる。咄嗟に持ち手を盾の端へと変えて、間髪入れずに身体を右回りで半回転。盾の角を若竜に叩きつけた。
それもたいした打撃とならずに盾はあっけなくひしゃげ、折れ曲がってしまった。
「ちっ」
舌打ちと共に盾を投げ捨てる。
若竜が虫を払い除けるように振るった右前脚を間一髪で躱しながら、腰裏のベルトバッグから手探りで擲弾筒を掴む。指で蓋を弾き外して着火する流れのまま、手首のスナップだけで若竜の鼻先に向けて投じ上げる。
どむっ!
響く爆発音、炎と煙が大気を濁す。
白煙を引き流し、爆風に吹き飛ばされたユーリィが地面を転げながら、その間すら惜しむ様子で大地を足で掻いて蹴る。体勢もおざなりに若竜から逃げる方向へと強引に駆け出した。