ただただ絶望
崖上の生物に畏怖を覚え、立ち竦む。皆の思いは同じだった。
――逃げられない。
一人、二人と地面にへたり込んでいく。
自暴自棄になった者。
絶望に耐え兼ねた者。
恐怖で腰が抜けた者。
竜に心を齧られた者――アンが崩れ落ちるように這い蹲った。
「アン姉!?」
ウィルは見たことの無い姉の姿を見た。
顔色は蒼白だった。ぼたぼたと汗が顎から滴る。呼吸が出来ぬような詰まった息遣い。胸を鷲掴み、垂れた頭が地面に付く。何かを口走っているようだが、荒い息と食いしばりで唸り声にしか聞こえない。
「おねいさん!? おねいさん!」
手を繋いでいたチビがアンの急変に驚き、半泣きで縋りついている。
ウィルは姉に飛びつき、肩に掛けていた鞄とショットガンを剥ぎ取る。苦しみで上下する背をさする。
「息が出来ないのか? アン姉! アン姉! どうしたんだよ!?」
「はッはぁッ、ハッァぁぁっ、ふッはぁ、はッぁ、ウうぅゥッ……」
焦燥と不安を堪えて掛けた言葉への答えは呻きと喘ぎだけ。
どうしたらいいのか分からない。冷たく汗ばんだ手を握り、苦しみ悶える背中をさすることしか出来ない。唇が震え、声が掠れても尚、姉を呼び続ける。
アンの苦しみに歪む顔が急に持ち上がった。
不安だらけのウィルの顔を無視して、迷うことなく向けた視線の先。涙で滲んだ瞳は崖上に鎮座した深緑の巨体に吸い寄せられていた。
竜が、咆えた。
荒野の大気が尽く強烈に震える。ぶ厚い鉄板を無理矢理に引き裂いていくような、重く、高い、耳をつんざく音。悲鳴にも似た不快でいて、本能的な恐怖を呼び覚ます音。
「ヒぃッ、ィッ、ぃ、ィぃぃぃぃぃぃィィッ!!」
アンは上半身をのけ反らせ、頭を抱えて叫び、再び地面に突っ伏した。
震え、叫び、荒さを増す息遣い。凛々しい姉の姿はもはや何処にも無い。
チビは泣き出していた。苦しむアンの姿のためか、竜の咆哮のためか、もう分からない。
ウィルは弟分への見栄だけで涙を堪えているだけ。姉の背中を撫でるだけで精一杯の状況だった。
三人を気に掛ける者は周囲に誰もいない。周りの大人達も等しく絶望と対峙していたからだ。他人を気にかける余力のある者はいなかった。
故に。
崖上での竜の奇妙な様子に気付いた者は、僅か二人だけだった。
その一人、ウォーレンは地面に身を屈めながら、竜とその周辺に目をやり観察していた。この神経質な男は頭上をかすめた竜、咆哮した竜を恐れながらも、崖上で竜が見せた理屈と合わぬ仕草が気になって仕方がなかった。
「さっきから、あの竜は一体」
思わず口を突く疑念。きっかけは、かの恐るべき咆哮が自分達に向いていない感覚だった。
今も崖上に見える竜の姿は荒野を見下ろす格好でありながら、関心は崖下というよりは、むしろ竜自身の足元にあるかの挙動に首をひねる。平時の冷静さを欠きながらも、おそらくは……と崩落からの出来事から推測を立てた辺りで、遠く微かに乾いた音を聞く。
ウォーレンは不審に眉根を寄せた。
「銃声……か?」
*
ギブスの予測は的確だった。
峡谷道の崩落を知ったヨークの住民達が、南東の洞窟を目指して荒野を行かねばらなぬ状況。降雨の気配を察知して飛来する時間を早めた竜。
だからこそ、ギブスが指示した断崖発破のタイミングは絶妙を極めた。
目的地である洞窟が土砂に埋もれるさまを住民達に見せつけ、発破とは別に砲撃を模した炸裂音で竜を挑発、警戒心を煽りたてた上で、先回りさせる形で呼び寄せる。
すべては竜の大皿から誰も逃がさないため、残された金品をギブスらが有効活用するため。
何より、これは壮絶な嫌がらせだった。ギブスをコケにしたヨークタウン三役に対する悪意に満ちた策謀だった。
残された工程は荒野に疑似的に隔離された憐れな連中らが竜に蹂躙される工程を残すのみ。
この上もなく、予測の通り、策謀の通りだった。
ここまでは――。
ギブスは思い違いをしていた。
竜を空飛ぶトカゲ程度と侮っていた。
知能が高いと教えられしたし、知ってもいた。
ただ、それは人が猿に対して評する程度の認識でしかなかった。
実際には、人と同格もしくは人以上ともいえる知能を持つとは経験として理解できていなかった。それは、これまで遠距離からの一方的な砲撃でしか竜を知らなかったからに他ならない。