対抗のすべは冷静
*
洞窟を目指し、荒野を行く住民達の列。最後尾を歩くウェッブは間延びし始めた列を恨めしく見遣り、確認したばかりの懐中時計を胸ポケットに納める。
目に見えて住民達の歩みがだれ始めている。列の先頭を引っ張るウォーレンが頑なに歩くペースを守っていることも今回ばかりは悪材料だった。
皆に無用な不安を煽ることを良しとせず、竜の飛来が早まる恐れを伝えなかった弊害かと溜息をついた。
「あっ」
ウェッブのやや前方。五人ほどの集団のなかで母と手を繋ぎ、何事かを話していた幼い少女が後ろを歩く父に話しかけようと振り返った時だった。さきの声を漏らして立ち止まる。
娘の様子につられた母が、次いで父が、同じく足を止め、娘が見つめる先を見る。
親子との距離が自然と詰まっていったウェッブも何気に顧みる。
呻いた。
建物の屋根に居座っている竜の後ろ姿に唖然とする。
――まだ、9時半を回ったばかりだぞ……!
胸の奥が締め上げられるような気持ちになりながらも、普段は鳴りを潜める豪胆さを発揮させ、親子の元へと小さく駆け寄る。腰の痛みを常日頃からボヤくウェッブにしては実に素早かった。
「ああ、あれは全然遠いから。こちらが気にしなければ大丈夫だよ。ほら、メグとマリーも前を向いて。歩いた、歩いた」
母娘を優しく促すと、父の腰をはたいて笑顔を作る。
「流石、リチャード。肝が座っとる男だ。分かってるじゃないか。動揺しなければ、騒がなければ大丈夫だと知っとる。さぁ、我らは粛々と歩こうか。それから、先を行く人らに静かにゆっくり追い着いて、走らず着実に行こうって、段々と伝えていこうじゃないか。洞窟まではまだあるからね。くたびれてしまわないように進まなければだからね」
「あ、あぁ、そ、そうですね。ほら、お前たちも行くぞ」
動揺の欠片すら無い満面の笑みなウェッブの態度に、母娘は安堵の表情を浮かべ、夫であり父である男も冷静さを失わずに済んだ。
親子と一緒に歩みを再開させながら、ウェッブは先を行く数人に目を向ける。どうやら立ち止まったウェッブと親子を気にする素振りを見せながらも、竜に気付いた様子は無い。
まずは、あそこに追い着き、事情を伝え、住民達に冷静さを徐々に広げていこうと心に決める。
穏やかな笑みで焦りを隠し、震える手を握り締める。広がる脇汗の不快に耐え、激しい鼓動をなだめようと深呼吸をする。
――このまま、静かに、ゆっくり歩くだけで、私らは逃げ切れる。絶対に大丈夫だ。
*
酒水筒の飲み口が当てられた唇の端が吊り上がる。
暗がりのなかで「そんなこと、させるわけねぇよなぁ?」という声が響く。
*
風の音しかなかった荒野に突如、こもった轟きが伝わった。
重い振動が大気と大地を揺らす。遅れて小さな、砲撃を思わせる爆発音が響く。
ヨークの住民らを先導していたウォーレンは轟音の元凶を目の前に見る。
「馬鹿な……」
前方に見えていた南北にたなびく断崖、その一角だった巨岩が崩れ落ちていく。派手に岩石が飛び散り、破砕された岩、支えを失った土砂が下へとなだれ落ちていく。盛大に土埃が舞う中心、断崖の下に小さな丘が出来上がり始めていた。
それはウォーレンらが目指していた洞窟の真上に等しい位置。
成す術なくウォーレンは呆然と見守っていた。彼を含め、背後に続く全員が唐突に目的地を失った光景。同じ光景を見ていた人々に悲鳴や怒声が上がり、動揺が広がっていく。
そのなかで「竜が!」との叫びを聞き、慌ててウォーレンは周囲に目を走らせる。見るべき方向は直ぐに分かった。殆どの者が先ほどの崩落ではなく、ヨークタウンの方を見ていた。何人かは指を差している。
ウォーレンの目尻と頬が痙攣する。
「竜が、こっちを」
見てる――。
長い首だけをこちらに向けていた。
随分と離れているはずなのに、何故かそれと分かる。
遠く識別すらできぬ竜の瞳、金色の輝きが自分を見ていると、誰もが思った。
「ッわあああああああああっ!」
誰かが叫んだ。それがきっかけだった。統制はあっけなく崩れた。
皆が走り出す。目指す方向など関係無い。怯え震える本能のまま、恐怖から離れようと死にもの狂いで駆け出す。その多くは土砂に埋もれた洞窟の方向へ。
幾人かが必死の形相でウォーレンの横を走り過ぎていった。
「待て! 待て! 冷静に冷静に行動しなければ! 闇雲に走っては駄目だ!」
狂奔する者達に向かって反射的に叫んだウォーレンの周囲が不意に暗くなった。
ただ、一瞬で元の明るさに戻る。
理由を理解するよりも先に、身体を押すほどの、土埃を激しく吹き飛ばすほどの強風を身に浴びる。何かが凄まじい速度で直上を通り過ぎたのだ。
竜は人間が数時間をかけて踏破する距離を僅か数秒で飛び抜け、ウォーレン達が目指していた洞窟の上、崩壊が及ばなかった岩棚の上にふわりと着地した。
全員が走ることを止めた。
逃げようと足掻く者は、もう誰もいなくなった。