最悪を避けたくば
乱れゆく息を一度の深呼吸で無理矢理に収め、南の荒野と北の空を交互に見返す。北への視線を横目で残し、コディは避難する皆の元に向かうべく、全力で足を蹴り出した。
「何処に行くつもりですか?」
落ち着き払った問いが届く前に先んじて、コディは自身の腕が掴まれたと感じた。
駆け始めた勢いに乗じたまま、振りほどいて走り去ろうとする。
が、腕が大地に立った鉄柱に括り付けられたかと思えるほどの抵抗を感じ、派手にのけ反って、尻もちをつく。
無様な位置から、未だ腕を離さぬユーリィに抗議の眼差しを向ける。
「は、離してくださいッ! ウェッブさん達に竜のことを伝えに行くんです!」
「自重すべきです。ここに来るのに馬を使わなかったことは良い判断でしたが、コディさんが走ってバタバタと土煙を舞わせてしまったら、竜の注意を引きかねません」
「だっ、だッたら! どうすれば!? あなたは死ねて本望かもしれない! でも僕達は!? 何もせずここで縮こまってろとでも?」
「その通りです。今この状況ならば、このまま竜がこちらに気付かぬことが一番です。それが期待できる程の距離は取れています。むしろ、恐れるべきは竜よりも洞窟を目指す誰かが竜に気付き、悲鳴を上げること。伝播した恐怖が皆のパニックを引き起こすこと。そうなれば、間違いなく竜に気取られます。悲鳴と狂騒に興奮した竜は、全てが途絶えるまで収まりはしないでしょう」
示された冷たい予想図、ぐうの音も出ない正論にコディの気勢は一気に萎んだ。
「分かっていただけたのなら、手を離しますよ」
コディは無言で頷き、掴まれた腕から力を抜く。
そもそもが引けど振れどもユーリィの手はびくともしなかったのだ。本気で逃れようとは思っていなかった。
解放されると同時に手を地面につく。もう頭は冷えていた。
焦燥感と使命感が出鱈目に混じって、考えなしの行動に出た愚かさを後悔する。
自身の破滅を願いながら、それでも冷静に目を配り、悲劇を避けようとしてくれたユーリィに、臆面もなく怒鳴り返した痴態に心が掻き乱される。またもや露呈した浅はかさに唇を噛む。もう、これ以上の失態をおかすまいとコディは渇いた大地に静かに身を伏せた。
ユーリィは視界の端に入ったコディの姿を見遣りつつ、立っていた背嚢を横たえ、自分も背嚢に身体を預ける格好で身を低くした。
「……ご迷惑をおかけしました。すみません」
傍らの地表近くから発せられた謝罪。口調から恥の気持ちを聞いたユーリィは「そういうこともあります」と視線を竜に据えながら、短く答えた。
もう、姿がはっきり確認できるほどに竜は迫っていた。ヨークタウンの上空へと至る軌道を辿り、ゆったりとした旋回飛行に移る。
ユーリィは背後を顧みた。
南の地平に揺らぐ人々の列は整然と進んでいる。
おそらく竜は荒野を行く何某かの列を、もう見つけていることだろうが、特段変わった様子がないことから、人間だとまでは識別するに至らず、興味の外であることが窺えた。
このままなら、主張した縄張りの確認だけで、立ち去る未来も十分にあり得る。むしろ、今この状況をあと数分ほども保てたならば、この危機を完全に脱せるとユーリィは考えていた。
鼓動は早い。期待を視線に込めて、願った。
きっと、避難するヨーク住民らは竜に気付かない。
きっと、ウェッブら年配者達は住民を適切に統べて、導ける。
きっと、大丈夫。
ユーリィは白く細い薬指からの二本を折り曲げ、掌をなぞる。感じた湿り気を隠すために握る。
その時。ユーリィの耳元で、あのしゃがれ声が囁いた。
『竜に抗え……害せ……殺せ……皆殺せ……』
息が詰まった。
身体の芯がぞくりと騒めいた。腹の底で何かが疼いた。
しゃがれ声が胸に暗く澱んだ願望をそそのかすように。
今すぐ、立てよ、始めよ、闘えよと煽り立てる。
思えば、最初は荒野に一人残って、竜を待つはずだった。
何も感じなくなるまで、全てがどうでもよくなるまで、闘うはずだった。
だのに、なぜ、こんなところで息を殺しているのか。
鼓動は既に激しく。息荒く見据えた竜から目が離せなくなっている。視界が赤く染まっていく。
無意識に探った胸元には、何も無かった。
ユーリィは熱い息を吐いた。そして、身を起こそうとした直前。
隣でゴクリと唾を飲み込む音が鳴って、耳に届いた。そのままの姿勢で、音の出元を辿る。地に伏せ、祈る形に手を合わせて竜の動きを見守る姿があった。表情を強張らせ、「あっ」と不安げな吐息をコディが漏らしていた。
……ユーリィはゆっくり息を吐いた。
まだ荒い息ながら、身体を元の位置に戻し、固く手を握り締め、あらためて竜を見た。
上空の周回を終えた竜が町で最も高い建物の屋根に降り立っていた。図らずも避難をする人々の列に対して、背を向ける格好。人の気配を探っているのか、長い首をしきりにあちこちへ巡らせている。
ユーリィは更に身を低く、背嚢を抱く腕に力を込める。
隣で息を潜める青年と同じ想いでありたいと願いながら、息を潜め続けた。