プロローグ 黒服の従者と失敗した竜撃ち
アルフレッド・ギブス隊長は、悠然と空を舞う竜を忌々しげに見た。
今しがた、九ポンド砲四門による弾幕砲撃をかわされたからだ。荒野に溶け込む擬装を施した野戦陣地。竜の不意を突いたタイミング。自信満々の砲撃だっただけに苛立ちも大きい。
旋回をした竜は早くも陣地へと至るルートをたどりつつある。
――あれは若い竜の動きじゃねぇだろ。ヨークタウンの連中、吹きやがったな。
一般的に経験の少ない若い竜ほど撃破難易度は低いとされている。
竜撃ちの傭兵にとっては討伐の成否に直結する話であり、事前準備や戦術に反映されるべき要因であり……それは何よりも費用や報酬に直結する。
だからこそ、依頼人のなかには事実を偽り、竜撃ちの報酬を安く済ませようとする輩も少なくない。剣や斧だのを振り回して、金をかけずに竜を撃退する時代じゃない。現代の竜狩り――竜撃ちはとかく金がかかる。
おそらくは、そんな理由なのだろうと舌打ちと共にギブスは決めつけた。
とにかく、依頼者であるヨークの町長たちを怒鳴りつけるためにも、この状況を切り抜けなければならない。さきほど部下達に指示した次弾の再装填が終わるのを焦れて待つ。前装式の手間は急いた時ほど、身に染みると帽子を被り直した。
ようやく命令の完遂を告げる声が返ってくる。
「第一砲の再装填、角度調整完了。撃てます」
「第二、第三、同じく」
「第四も終わり」
「全砲いけます。第四のみ指示通り竜誘弾を装填」
副長が爬虫類のような無表情さで報告を締めた。
「まずは竜誘弾。生じる誘引音を確認後、指定域への砲撃に移る。次弾は近接ぶどう弾だ。準備しとけ」
ギブスは無精ひげの生えたアゴを撫でながら、心なしか声をひそめて砲撃の指示へとつなげる。
「第四。前方上空、飛来する竜。竜誘弾に指名……」
ゆっくり飛来する竜をにらむ。
ギブスは第四砲の砲手達に伝える砲撃命令の機をはかはかっていた最中、ギョッとする。
竜が大砲の射線直前で身を捻って急旋回したからだ。竜の背にある蝙蝠に似た羽の力とは思えない軌道を描いた。
砲撃の機会を失したまま、竜が瞬く間に加速して至近へと迫る。
途轍もない速度で陣地スレスレを飛び過ぎていく。遅れてきた突風が擬装の要たる陣覆いを呆気なく吹き飛ばす。擬装を剥がされ、色を失う砲手達。それでも、異常な速度で陣地を周回する竜を探し、口々に叫ぶ。
「二時の方向、三時、五……」
「竜影は左に! 消えッッ」
「右ッ、五時から急接」
第四砲の砲手が上げた叫びは途絶え、再び強烈な突風が陣地を蹂躙した。
ギブスは風に突き飛ばされ、地面を転がった。暴風に舞い狂う砂塵のなか、目もろくに開けられない。風鳴りに混じって届く、悲鳴と怒声、悪態を聞きながら、成す術なく身を丸めるほかなかった。
――やがて、風はおさまり、陣地は仮初めの平穏を取り戻す。
周りには蹂躙の証拠たる土煙が舞っていた。ギブスは身体を起こし、砂が混じった唾を吐き捨てた。
「損害確認、急げよ」
冷静に命令を発する。
部下達に目先の目的を与えて、混乱の収束を図る。
反して、自身は四方の上空に視線を巡らせるも、眉をひそめた。
竜の姿が消えていたからだ。
周りは岩ばかりの荒れ地。人間ならまだしも、六十フィートはあった竜が身を隠す場所などあるはずもない。飛び去ったにしても、遠くにその姿を認めることができるはず。不安を払拭する材料を求めて、必死に視線を巡らせる。
答えを得られぬまま、先に出した命令の報告を副長がよこす。
「軽傷五名、重傷二名。第一から第三砲に損害なし、砲角度のズレのみ。ただ、第四砲がありません」
「は?」
「それにジョージがいません」
副長は第四砲を担当していた砲手の一人の名をあげた。
言葉の意味を理解したギブスは、この依頼を寄越したヨークタウン町長の顔面を張り倒したい衝動にかられる。
そこで気付く。
竜の姿を見つけられない理由。竜が大砲を持ち去った理由。
咄嗟にギブスは直上を見上げた。
頂点を目指す太陽のまぶしさが邪魔する視界のなか、はるか上空に点が見えた。
見る間に大きく、急速に迫って――。
「まッズい、逃げろッ!」
ギブスは叫び、陣地から転げるようにして駈け出していた。副長と幾人かが盲目的に従う。
大半の者は叫びの意味を咀嚼できず固まったまま。一人だけ、ギブス同様に空を見上げた砲手がいた。上空から逆さ落としに迫り来る災厄の姿を見て取れた時、竜が何かを手放した。
「ぁあ……」
空を見上げた砲手はうめいた。
既に大砲とジョージは直上に迫っていた。
砲手はひゅッと息を吸った。悲鳴のためか、警告のためか。ただ、落下速度を無理矢理に加速させられた大砲とジョージの方が圧倒的に速かった。
陣地に派手な土煙が上がる。
衝撃は即死を免れた他の砲手達を引き倒し、発射準備を終えていた三門の九ポンド砲へと及び――暴発を引き起こす。さらに散発的な爆発音の後、逃げ遅れた者たちは陣地と共に爆発四散した。
荒野に爆音が轟き渡る。
もうもうと巻き上がった黒い煙の柱から、幾つもの破片が煙を引き連れ、飛び散っていく。
上空へと帰った竜は喉をごくりごくりと鳴らしていた。
風に流され、薄れゆく黒煙の下、かろうじて命を残して逃走する幾つかの人影を見つける。すぼめた目の奥、金色の瞳が悦びに瞬く。
竜は頭を地上へと向けた。うねる深緑の巨影は滑らかに降下の形へと移行した。
***
荒野を歩いていたユーリィは右後方から届いた爆発音に視線を上げた。
短い黒髪をさらりと踊らせて、音の出処へと視線をめぐらすと地平の向こうに膨れた黒煙の塊。上空には深緑の鱗を陽光にきらめかせる竜の姿。
胸の奥で鼓動が大きく跳ねた。
「竜……」
ユーリィの歩みが止まった。
女に似つかわしくない無骨なブーツが乾いた地面に小さな土煙をつくる。上空から急降下する竜の姿に釘付けになったまま、心なしか荒くなった息遣いで呟く。
「まだ若い」
見開かれた目、黒い瞳は彼方の深緑を捉えて離さず。
脳裏にこびりつくあの人の囁きが聞こえる。怒りと狂気に取り憑かれた、しゃがれ声で言う。
『竜に抗え……害せ……殺せ……』
ユーリィは黒煙が揺蕩う方向、若竜が空を舞う方向にふらふらと身体を向けた。黒いワンピースの裾がふわりなびくも、腰を細く引き絞る皮のコルセットがそれを押し止める。
竜に向かって一歩を踏み出す。
しかし、スカートの裾に小さな抵抗を感じた。
「どこにいくの?」
足元からの幼い声にハッとする。
ユーリィは慌てて胸元をまさぐり、目当ての形を掌で感じる。紋章らしきを象ったブローチを強く握りながら、慌てて足元に目を向ける。
真っ白な髪をした小さな男の子がスカートに縋りついていた。
「ごめんね、チビくん。何でもない。でも、ちょっと急ごうか」
視線を若竜から引き剥がし、幼子を左脇に抱きかかえた。目線が高くなり、きゃっきゃと喜ぶ男の子に柔らかな笑みを向ける。
ユーリィは進むべき方向へと再び歩み始めた。
人目を引く女だった。
人形のように整った目鼻立ち、この西部の荒野にあっても日焼けていない白い肌。短くも艶やかな黒髪、大きな黒い瞳。喪服を思わせる真っ黒な装い。
何より、背負う背嚢があまりに巨大だった。背負う者の頭四つ分ほど上にある高さ、身体の三倍はある幅と厚み。
ユーリィは歩く速度をぐんぐん上げながら、なお続く囁きに心のなかで応じた。
――今はダメ。でも、近いうちに必ず。