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あをがすみ

作者: 橘皐月



青が嫌いだった。

妻が、好きな色だった。

ブルーのワンピース、サンダル、サファイアのネックレス。

いつも、何かしら身につけるものに「青」が入っていて、私はその「青」を身に纏う彼女をとても愛していた。普段からほとんど物言わぬ女性で、自分のことを表現せず、よく言えば大人しくつつましやかな女性。悪く言えば、他人の意見に流されて生きていると思っていた。だから、こんな12歳も年上の自分と結婚したんだと。


私の実家の近くに住もうといっても、何も文句を言わずただついてきた。家を買うのも、「仁志(ひとし)さんの好きな場所に」と私にその場所の選択を委ねた彼女。結局家を買う前に、彼女は出て行ってしまった。半年前のことだ。


私の母親——彼女からすれば姑から、ことあるごとに「ああしなさい」「こうしなさい」と言われ続けて、我慢がならなかったのだろう。最初は「そうですね」「はい」「そうします」と従順に答え続けた彼女だったけれど、出ていく寸前は、母の言葉に何も反応を示さなくなっていた。


半年前に妻が家を出て行ってから、私は何をするにも気力が起きない。

家を出ると視界に入る空の青が目に飛び込んでくる。出勤すれば職場で使っている分厚い青いファイル、青いペン。

その全てから、彼女を思い出さずにはいられなかった。だから、いつしか私は青が嫌いになっていた。妻に似合う青を、あれほど好いていたはずなのに。



このままではまずいと思って、三連休に一人、旅に出かけることにした。車を出して三時間くらい、ただ黙々と運転した。職場や実家から遠く離れた静かな町にたどり着く。日本海を臨む本当に小さな町。民家の奥にはすぐそばに山が迫っていて、海の向こうにもいくつかの山がそびえ立っていた。

運転に疲れて、小さな港で伸びをした。吹き付ける風が心地よい。自分と同じように観光や遊びに来た人たちが結構いつものの、恐ろしいほど静かで、ここにいたら時の流れが幾分かゆっくりと感じられた。

じっと、海を見つめる。海の色はそれほど綺麗じゃなかった。近くで見ると緑がかっているのが分かる。けれど不思議なことに、遠く眺めていると、海はやっぱり青かった。空の青が映っているのだ。理屈は分かるのだが、とても不思議な感覚だった。

さらにぼうっと海や山を眺めていると、山と水面の境目が青く光っているのが見えた。なぜそうなるのか分からないが、それを見てふと思い出したことがある。


一年前。

妻と旅行に行った。妻が好きだったかすみ草畑を見にいくためだった。かすみ草畑に、妻はとても満足してくれた。夜は山の上のホテルに泊まった。朝早く起きて、ホテルの窓から山を眺めたら、霞がかっていた。しかもその霞が、少しだけ青く見えた。これも、空の色が映っていたのだろう。

それを見た妻が「あおがすみ」と名をつけた。そんな言葉は聞いたことがなかったが、彼女が「あおがすみ」と口ずさんだときの、遠くを見つめていたその美しさを、私はもう一度見たかった。



妻との思い出をぼんやりと振り返りながら、気がつくと私は、小さな町の小さな花屋に向かっていた。

事前に調べていたわけではなかったが、スマホで検索したら見つかったのだ。

花屋には、四十代くらいの店員の女性が一人いた。

「かすみ草、ありますか?」

何も考えることなく、妻が好きだった花の名前を口にする。

「ありますよ」

「じゃあ、かすみ草買います。花束にして」

「あら、どなたかの誕生日か何か?」

店員はにこにこと、花を買う中年男性を見た。

「誕生日ではないのですが、妻に手向けるために」

「いいわねえ」

おそらくほとんど同じくらいの年齢の彼女はかすみ草を手に取り、「これでいいかしら」と私に問うた。

「はい。ちなみに、青いかすみ草は、ないですよね。ネットでちらっと見たのですが」

「青いかすみ草?」

「はい。これなのですが」

私はポケットから取り出したスマホで「かすみ草 青」と画像で検索をした。その画面を、花屋の店員に見せる。

「ああ、それはね、染めてるの」

「染めてる?」

「そう。白いかすみ草を染めてつくった、人工的な青色だよ」

「そうですか。じゃあ、白を買います」

「ありがとう」

なんだか夢が打ち砕かれたような切なさと、同時に、苦手だと感じていた「青」から解放される喜びがこみ上げる。


彼女が好きだったかすみ草と青。


「あをがすみ」は、彼女の好きな青に染まるかすみ草のことも連想した言葉なのかもしれない。彼女はやはり、誰かの心に染まりたかったんだろうか。

……いや、本当は、染まりたくなかったんだろうと思う。

妻はいつだって、私の後をついてきてはくれたけれど、自分が好きなものについてはまっすぐだった。

かすみ草も、青色も、自ら愛して止まなかったものだ。

思えば私の実家で母から「ねえ、あの服どう思う?」とこそっと耳打ちされた時——彼女にもその言葉は聞こえていただろう——彼女は凛とした表情で、母を見ていた。そして、次に母の前に顔を出した時にも、同じ服を来ていた。青いセーターに、水色のスカート。私としてはそれほど気になる色の組み合わせでもなかったのだけれど、母からすれば、色がうるさすぎたんだろう。母は神経質だったから、そういうことが度々あった。


けれど、そんな母の言葉に、顔色一つ変えずに、にっこり笑いさえする彼女が、私にとっては頼もしく、美しいと思った。



店員さんが包んでくれる白いかすみ草。

染まりたくないからこそ、彼女は「自分の色」として、いつも青を身につけていた。青いワンピースを着た彼女が、かすみ草畑の中で、美しく浮かび上がっていた姿を思い出す。

白い霞と白いかすみ草の中に、彼女の願いを見た気がした。



この旅の帰りに、彼女に手向けにいこう。

母の言うことを無理して聞かなくていいのだと、自分がそばにいたいのだと、伝えに。



【終わり】


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