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第97話 普通

「……と、いう訳なんです」


 天井を眺めながら、アイザックが話を終えた。刻とフード男との間に起こった出来事を聞いて、グレンの目付きは更に鋭くなる。


「日野さんは力を抑えられなかったとはいえ、まだ誰かを傷付けることに躊躇(ためら)いがあった。刻は私達にはいつも手加減をしていた。ですが、あのフード男は人を傷付けることにも街を破壊することにも躊躇いが無い。むしろ、楽しんでいます……そのおかげで、死なずに済みましたけど」

「そんな奴に本が力を与えたとはな……青い本は何が目的なんだ? この世界を壊すことか?」

「目的は誰にも分かりません。本の中身を全て読むことが出来る刻でさえ、それは分からない。しかし、これ以上力を持つ者を増やされたら堪りません」


 アイザックの言葉に、その場にいる全員が俯いて黙り込む。すると、ハルが何かを思い付いたように顔を上げてポンっと手を叩いた。肩の上に乗っているアルも全く同じ動作をしている。


「本が願いを叶えて新しいルールが書き足されたなら、ショウちゃんを普通の体に戻してって青い本にお願いすれば良いんじゃない?」


 我ながら妙案だと言いたげにハルは腕を組み頷いた。しかし、アイザックはハルの頭を撫でながら悲しそうに微笑む。


「良い考えですが、難しいかもしれません。それが出来れば、刻は既に普通の体になっていると思います。あの人は誰よりも、普通であることを望んで、本に願っていましたから」


 そう言って、撫でていたハルの頭をポンポンと軽く叩くと、アイザックはスッとグレンへ視線を向け、部屋の隅に置かれた自分の荷物を指差した。


「なんだよ」


 アイザックの指の動きに合わせてグレンが荷物の方へ顔を向ける。日野とハル、アルも同じ方向へ視線を向けた。


「私の財布、入ってますから。それを使って情報屋に行ってきてください。フード男の素性も調べておいて損は無いでしょう。私はこの通り動けませんし、頼みましたよ」


 ニッコリと微笑むその顔が、勿論お前が行くよな? と言っているように見えて、グレンは苦笑した。へいへいとぶっきらぼうに返事を返していると、日野がおずおずと手を挙げる。


「あ、あの。それなら私は……」

「駄目だ」

「ショウちゃん駄目だよ」

「ここにいた方がいいですよ」

「……まだ何も言ってないんですけど」


 遠慮がちに伝えようとした日野の主張は目の前にいる男全員に却下された。アルも、小さな腕で何度もバツを作っている。

 何も言っていないのに……私が言いたいことが分かったのだろうか? ローズマリーやルビーの匂いを辿ってみようと思ったのだが、時間が経って匂いも無くなっているだろうし、やはり厳しいか……。

 シュンと肩を落とした日野の頭にグレンの手が乗り、クシャクシャと髪を撫でられる。


「ローズマリーとルビーの匂いを辿るのはアルに任せろ。俺はフード男の素性を調べる。お前ら二人はおじさんの子守りでもしておけ」

「任せて!」


 トンっと胸に拳を当てたハルに苦笑するアイザック。そして、日野は驚いたようにグレンを見上げていた。本当に私の考えていることが分かったのか……よく見ていてくれて面倒見が良いとは思っていたがここまでとは……。

 驚く日野にフッと笑いかけると、グレンはアルを呼んだ。ハルの肩の上から降りたアルは、グレンの頭の上まで駆け登る。それを確認して、グレンはコートを取りに行った。いつも身に付けている黒いロングコートはある程度は撥水するが、雨のせいでまだ少し湿っている。バサリと音を立ててコートを羽織ると、部屋の隅にあるアイザックのバッグから財布を取り出した。


「行ってくる」


 それだけ言うと、グレンは出て行った。自分より背の高い後ろ姿に、日野は何事も無く戻って来てくれるよう祈る。誰かが傷付くこともなく、ただ平凡に、普通に生きていくことは、もしかしたら一番難しいことなのかもしれない。普通が何であるかすら、人によって様々だ。

 普通であること……アイザックは、刻が誰よりもそれを望んでいたと言った……それは、私も同じかもしれない。違う世界に行きたいと願いながらも、心のどこかで、普通に笑える周りの人間達が羨ましかった。そんな考えが頭を過ぎる。

 すると、日野の様子をジッと見つめていたアイザックが手を挙げた。


「私、お腹空きました」

「……ボクも」

「あ、じゃあ何かあるものでご飯作ります!」


 出来ることがあった! と日野の表情が微かに明るくなる。パタパタと食事の準備に行った日野を見て、ハルとアイザックは目を見合わせて微笑んだ。

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