第96話 懐かしい匂い
白く長い睫毛が微かに揺れた。ゆっくりと開かれた瞼の中から、黒い瞳が現れる。パチパチと数回瞬きを繰り返すと、刻は勢いよく上体を起こした。
「……ここは」
見覚えのない部屋。確か、先程までフード男と戦っていた……しかし、鉈で裂かれた筈のシャツは血の跡も残さず真っ白のまま。ほつれすら無く、アイザックの匂いがする。そして、どこからかローズマリーとルビーの香りもした。
刻はクンクンと辺りの匂いを嗅ぎながら目を動かす。すると、張り詰めたような視線が自身に集中していた。その中でも、こちらを睨む緑の瞳は敵意に満ちている。小さな手が、眠っているアイザックの手を握り締め、もう片方の手にはルビーの服に付いていた筈のリボンが握られていた。
「……どうして二人から離れたの?」
震える声でそう言って、ハルが立ち上がる。スタスタと刻のベッドへ近付くと、柑子色のリボンを突き出した。
「いないよ、あの二人。避難するにしても、荷物を置いたまま行く訳がない。あんなに部屋が荒らされてる訳がない……何かあったんだ……どうして傍にいなかったんだよ!」
ハルの言葉に、刻は目を見開いた。小さな手に握り締められたリボンをジッと見つめる。ふと部屋の隅を見ると、日野達の荷物の傍にローズマリーのトランクが置いてあった。
匂いの正体はそれか。心の中でそう呟く。いないということは、攫われたか……誰がやったかは分からないが、二人を狙う人間として真っ先に思い浮かぶのはフード男だ。
ギシ……と音を立ててベッドから立ち上がると、刻はチラリとアイザックを見て眉間に皺を寄せたが、何も言わず部屋の隅へ向かう。トランクを持つとそのまま扉の方へ向かって行った。
「一人でどうするつもりだ? お前を気絶させる程の男だぞ。それにあいつ、力の強いお前が相手なら殺さずに甚振って楽しむだろう、おじさんと同じように」
「俺は一人で充分だ。貴様にどうこう言われる筋合いはない」
ピクリと眉を動かして、刻が振り返った。グレンの瞳に映るその顔は平静を装ってはいるものの、焦りや戸惑い、そして怒りに震えているようだった。
そんな刻に、日野が恐る恐る問い掛ける。
「あの……刻、さん」
「さんは付けるな、鬱陶しい」
「ごめんなさい……刻、あの。ローズマリーさんとルビーちゃんは、フードの人に攫われたんだと思うの。フードの人が、獲物は捕まえたって言ってた。それって二人のことじゃない? でも、あの人はずっと街を破壊したりザック先生や私達と戦ってた。連れ去る時間は無かったと思うんだけど……仲間がいるとか、何か知ってることない?」
「奴はローズマリーが欲しいと言った。ついでにルビーも貰うらしい。それ以外は、何も知らない」
刻の答えに、ハルが眉を寄せる。苛立ったように、ついで? と小さく呟かれた声の方へ少しだけ視線を向けると、刻は再び扉の方へ向かった。長く形の整った綺麗な指がスッとドアノブに触れる。
「待ってよ、私達と一緒にいない? みんなで捜せば二人も早く見つけられるだろうし、フードの人にだって一人じゃ勝てな……」
「その必要はない。緑の片割れの顔を見ろ、貴様らと一緒にいる方が危険だ」
それに、フード男に二人が何をされるか分からない。事は一刻を争うのだ。焦る気持ちを隠しながら、刻は部屋の扉を開ける。
「おい、後で返しに来いよ。それ、おじさんの服なんだからな」
「……どうりで、懐かしく感じるわけだ」
グレンの言葉にフッと笑うと、刻は部屋を出て行った。
フード男はローズマリーのことを欲しがっていた。ルビーのことも。手に入った情報はそれだけ。名前も素性も分からない。一体どうやって手掛かりを掴めば良いのかと日野が肩を落とすと、ハルがチョイチョイと日野の服を引っ張った。
「まだあるよ、手掛かり」
パッと見せられたのは、ルビーのリボン。
「ショウちゃんも、アルも鼻が効くでしょ? だから大丈夫。必ず見つかるよ」
「そっか……その手があったね」
ハルの肩の上で、任せろ! と言いたげに胸を張るアルに日野が微笑むと、ベッドの方から小さな呻き声が聞こえて、その場にいる全員の視線がアイザックへ集まった。
「……っ、あ、あいつは……どうなった……」
「ザック先生!」
目を覚ましたアイザックにハルが駆け寄る。バッと手を握ると、緑色の大きな瞳に涙を溜めた。
「フード男ならこの街から消えたよ。ザック先生、傷だらけだったけど、止血もしたから……もう大丈夫」
「ハル……」
ありがとうございます、と言ってアイザックはハルの頭を撫でた。大きな手の温もりに安心したのか、ハルは我慢していた涙をポロポロと溢れさせる。その涙をそっと拭うと、アイザックは日野とグレンにも礼を言い微笑んだ。
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