第93話 覚醒
目の前に広がる世界には色が無かった。物体についたそれぞれの色を認識はしていても、それに心を動かされることもなく、いつも灰の降り続ける薄暗い世界にいるようだった。
変わらない、つまらない毎日の繰り返しだったが、目の前の仕事さえこなせば、お金が入る。そして、食べて、寝て、呼吸して、生きていける。
そうやって普通の人生を歩んで満足しているつもりだった。だけど何かが違って、何かが少し足りなくて、心にぽっかりと空いた隙間に一体どんなものを詰めたら埋まるのか分からなかった。
笑い方を忘れたのがいつだったかも覚えていない。ただ死ぬまで生きる、それだけ。達成したい目標も、叶えたい夢もない。ましてや守るものなんて今まで一つも無かった。
ただ、ただ一つだけ願うことが出来るのなら、どこか遠くへ行きたい。違う世界へ行けたらいいのにと思っていた。
──そして、突然その日は訪れる。
温かく色鮮やかな世界が目の前に広がった。ぶっきらぼうな言葉や不機嫌そうな寝起きの表情、口角を上げて笑う楽しそうな姿、自分を見つめる栗色の瞳。その一つ一つが心を動かした。
深緑の髪を靡かせながら駆け寄って来る人懐っこい笑顔、その肩に座り寛ぐネズミ。父や兄のようにいつも見守ってくれる悪戯好きなお医者さん。私の周りには、いつの間にか大切なものがたくさん出来ていた。
しかし、身体の中から響く誰かの叫び声がそれを守ることを許さない。
──壊したい、この世界を。殺したい、目の前に生きるもの全てを。
街が破壊されていく音に笑みを浮かべながら、ポロポロと涙を流すことで日野の心は必死に抵抗していた。屋根の上から覗いた街の中では、刻とフード男が辺りの建物を破壊しながら戦っている。白髪の殺人鬼は拳を振るう度に苦痛に顔を歪めていた。今まで、どれだけの苦しみを味わい、どれだけの人の死を背負ってきたのだろう……私に、それが出来るのか。
「……ワタシ、は」
──壊れてしまえ、何もかも。みんなみんないなくなってしまえばいい。
パクパクと何か言いたげに日野は口を動かすが、身体の中に響く叫び声が邪魔をする。
その時、フード男が刻の隙を突き大きな鉈を振り回した。刃は刻のスーツを裂き皮膚に食い込むと真っ赤な血を弾けさせる。街の中に刻の苦悶の声が響き、フード男は膝をついた刻に満足そうな笑みを浮かべると、アイザックを手当てしているグレンとハルの方へ狙いを定めた。
「ワカルよ……ワタシも、あんな色の無い世界なんて捨ててしまいたかった……ミンナの気持ちも少しは分かってあげられると思う。でも、ごめんなさい」
小さな声で日野は呟き続ける。
地面を強く蹴ったフード男は一気にグレン達の方へと飛び、距離を詰めた。
「私は、刻みたいに強くなれない。だから、ごめんなさい。やっぱり私は、誰も何も傷付けない」
そう言って、日野はキッとフード男へ視線を向ける。
怪我人を抱えたままで逃げ切れなかったグレン達に、振り上げられたフード男の爪が突き刺さろうとした時──
「──っ、お前! どうして!?」
「ショウちゃん!」
舞い上がった砂煙。漆黒と深紫、二人の長い髪が風に揺れ、振り上げられたフード男の爪は、その腕ごと日野に押さえられていた。自分を落ち着かせるように、日野は俯いて長い息を吐く。そして、その金色の瞳で男を睨み付けると、腹部を思い切り蹴り飛ばした。
「──っぐあ!?」
銃で撃たれたような衝撃に男は口から血を吐き出して地面に転がっていく。被っていたフードが外れて見えづらかった男の顔が露わになった。微かな月明かりに照らされた彼は、少し幼さを残した顔立ちで、二十代前半くらいだろうか……呻きながら口端の血を拭い、フラフラと立ち上がった男を日野が静かに見つめていると、男は新しい玩具を見つけた子供のように目を輝かせた。
「オネエサン、思ってたより強いじゃん。なんで敵になっちゃうのさ。オレと一緒に暴れようよ」
「ごめんなさい。私は、大切な人がいるこの世界を守りたい。だから、何かを壊したり誰かを傷付けたりしたくない」
「……キスまでした仲なのに勿体無いなあ」
そう言って、悪戯っ子のような笑みを浮かべた男は少し遠くにある瓦礫の陰へスッと視線を向けた。
「まあ、獲物は捕まえられたから今回はこの位にしておこうかな……また会いたいよ、オネエサン」
「──待って!」
「早く手当てしてあげなよ、ソイツもアイツも死んじゃうよ」
クスクスと笑いながら、男は闇の中へと消えていった。
ハッとして辺りを見回すと、傷付いた刻とアイザックはぐったりと目を閉じたまま動かない。今はまず二人を助けなければ……。
悔しさに拳を握り締めながら、日野はグッと力を押し込める。瞳の色が、ユラユラと揺れながら焦茶色へと戻っていった。日野は急いでグレン達の元へと駆け寄って行く。
半壊した街の中──空を覆い隠している雲から、ポツリ、ポツリと雨が降り始めた。
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