第92話 抵抗
銃口を向けたまま、言葉を発することもなくグレンの栗色の瞳はジッと日野を見つめていた。
月の霞んだ夜空の下で、街の人々の逃げ惑う足音や甲高い叫び声、建物が破壊されていく音がドカンドカンと響いている。
日野はそれがまるで子守唄にでも聴こえているかのように穏やかな笑みを浮かべていた。しかし、金色に変化してしまったその瞳からはポロポロと涙が流れている。
「泣くんだったら最初から離れるんじゃねえよ」
グレンが小さな声でそう言った時、日野が地面を蹴り、一気に距離を詰めた。鋭く尖った左手の爪がグレンを狙う。ギリギリまで引きつけ間一髪で避けた。辺りの砂が舞い上がる。先程までいた場所には地面に大きな穴が空き、ゲホゲホと咳き込む日野をグレンは後ろ手に抑え込んだが、振り解かれてしまう。
「──グレン!」
遠くから聞き慣れた幼い声が響き、目を離した隙に日野はグレンから距離を取った。力も増し、逃げ足も速くなっていて今までのように捕まえるのは難しくなっている。チッと舌打ちをすると、グレンは声の主を探して、その姿に目を見開いた。
「ハル、血が……誰がやった?!」
「ボクのじゃない! 早く来て──ザック先生が死んじゃう!」
一体何があった? 先程から遠くで聞こえ続けている悲鳴……意識を取り戻した刻が暴れているのか?
日野を早く何とかしなければという気持ちもあるが、ハルの体は血で赤く染まり、引き攣ったその表情から猶予の無い状況であることは理解出来る。
「ハル、おじさんはどこだ?」
その言葉に、何も言わず走り出したハルをグレンは追いかけた。その場に取り残された日野は、遠ざかっていく後ろ姿を少し眺めてフワリと近くの屋根まで飛び上がると、二人を追いかける。
──もう生きていくのが辛い、生まれてこなければ良かった、あんな奴と出会わなければ良かった、あんなこと言わなければ良かった、こんな筈じゃなかった、過去を取り消したい、未来なんて無くていい、自分も周りも全て壊してしまいたい……
知り合いでもない誰かの心の叫び声。それは相変わらず頭の中に響いているが、耳から入ってくる街の人々の悲鳴や建物が壊れていく音でそれが紛れた……一時は体が言うことを聞かず女を殺し損ねたが、今は自分の意思で動かせる。フード男から血を飲まされた時、スッと頭痛も引いていた。
「もうダイジョウブ……壊す、全部」
何故かポロポロと溢れ続ける涙で目の前がよく見えないが、匂いだけでも追いかけることは出来る。支障無いだろう……そう思いながら屋根伝いに走っていると、彼らの動きが止まった気がして日野も走るのを止めた。
ゴシゴシと涙を拭いながら屋根の端まで歩くが、拭っても拭っても溢れてくる涙に、それを止めることを諦めた。そのまま下へ視線を向けると大きな道が広がっていて、そこには──
「おじさん!?」
「ザック先生……」
「……ハル、グレン、遅い……ですよ」
真っ白だったスーツを自らの血で染め、浅い呼吸を繰り返しながら膝をついているアイザックがいた。その髪を掴み、フード男がケラケラと楽しそうに笑っている。
「コイツただの人間のクセに強くてビックリしたよ。普通に戦ってたらオレが死んでたかも。やっぱりこの力は最高だね……そう思うでしょ? オネエサン」
そう言って、フード男は日野を見上げた。しかし日野は、ニッコリと無邪気な笑みを浮かべる男ではなく、ジッとアイザックを見つめている。アイザックは男が余所見をしている間に、カチャカチャと何かを取り出していた。
「……刻のところへは行かせません。あの子の幸せは、絶対に壊させない」
「──っ痛!? オマエ、何やって……ぐっ、アアア」
皮膚を貫かれた痛みと、体に入り込んだ薬の効果で男は苦悶の声を上げてアイザックを蹴り飛ばした。腕から針を引き抜くと、注射器を力一杯握り締める。バキッと音を立てて中の液体が漏れ始めたそれを地面に叩きつけるように捨てると、男はワナワナと体を震わせた。
「オネエサン、こいつらの始末は任せたよ。アイツの幸せが何? オレには関係無い。ローズマリーはオレが貰う……ねえ、聞いてる? オネエサン!?」
涙を流しながら立ち尽くすだけの日野に苛立ち、男の口調が強くなる。すると、日野の後ろにスッと誰かの影が見えた。
夜風に靡く白髪、暗闇の中で揺れる金色の瞳。新しい黒のスーツを身にまとい、日野の隣に現れたのは──
「──オマエ!?」
「残念だが、渡さない。ローズマリーもルビーも、貴様にだけはな」
低い声が辺りに響く。刻は、フード男から少し離れた場所で血塗れのアイザックを介抱しているグレンとハルを見て眉間に皺を寄せた。日野へ視線を移し、その耳元に顔を近付ける。
「守りたいものがあるなら、心を喰われるな」
そう言ってフッと溜め息を吐くと、刻は屋根を飛び降りた。
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