第91話 完成
──痛い、痛い、痛い。
街の中心部より少し外れた路地の中から、荒い息遣いが聞こえる。微かに月の光が届くその場所で、日野は隠れるように蹲っていた。
脳みそを掻き回されるような激痛を抑えるために両手で頭を掴んでいると、次第に痛みは落ち着いてきた。しかし、変化している爪は元に戻らない。
辛い、苦しい、助けて──名前も知らない誰かの心の叫びが頭の中に響き渡る。ザック先生の薬が身体の中で抵抗しているのか、瞳の色は不安定に焦茶色と金色の間を彷徨っていた。
爪は長く鋭いまま、その先端にグレンの血液を残している。赤く染まった爪先を袖で拭いながら瞬きをすると、ポロポロと涙が頬を伝った。
あの時、青い本と血の匂い、それに反応して身体が変化した。周りのモノ全てを破壊したいという衝動が抑えられなくなるのがいつもよりずっと早く、周囲で楽しそうに笑っている人の声を不快に感じた。同時に、これが悲鳴に変わることを想像すると愉しくなり、目の前のハルに爪を振りかざす。
止めようと腕を掴んできたグレンとザック先生が、強くなった自分の力に負けそうになりながらも必死で押さえている……薬を打たれ意識を飛ばすまで、その必死な顔を見て愉しんでいる自分がいて、人間としての心を失っていくような気がした。
──目を覚ましても、それは変わらなかった。
瞳の色はユラユラと不安定に色を変え、爪は元に戻らないまま。駆け寄って来てくれたグレンを突き飛ばした拍子に、彼の頬を傷付けた。驚いたグレンの頬から伝う血の匂いが、また頭を掻き乱す。
眉間に皺を寄せてこちらを見つめるグレンの顔が、何だか悲しそうに見えた。
「離れなきゃ……グレンから、みんなから」
薬は残り二本。打てば意識を失ってしまうため、迂闊に街中では使えない。誰かに助けられ、目を覚ました時に元の身体に戻っていなければ相手を襲いかねない。
タイミングを間違えないように気を付けなければ……また傷付けてしまう前に、ここから離れよう。
守られてばかりで、自分が危険な存在なのだという感覚が薄れていた。何とかしなければと思いながら、今まで何も出来ていなかった。
「……ごめんなさい。私、やっぱり強くなれない」
頬を伝う涙を止めることも出来ず、日野はそう言って短い呼吸を繰り返す。彼らの傍にいるためには、この世界で誰かと一緒に生きるためには、最低でも自分で力を抑えられるくらいには強くならなくてはいけない。変化する度に止めてもらい、薬で意識を失って、面倒を見てもらい続ける訳にはいかない。
しかし、強くなる──それが出来る自信がない。
それなら、誰もいない場所へ……どこか遠くへ……一人で生きていける場所へ……。
「行かなきゃ」
まだズキズキと痛み続ける頭を押さえながら、日野はゆっくりと暗い路地を進む。誰とも会わないよう、街の端から回り込んで外に出よう。
──そう思った時だった。
「オマエ、なんで我慢するの?」
不意にかけられた声に日野は驚き辺りを見回す。すると、建物の屋根に人影があった。フードを目深に被っていて顔はよく見えない。その人影は軽やかに壁を蹴りながら日野の目の前まで降り立つ。ふわりと揺れた深紫色の長い髪、こちらを見つめる男の瞳は金色に妖しく揺れていた。
「なんで黙ってるの?」
ニヤニヤと楽しそうに笑みを浮かべながら、驚き言葉を発しない日野に男は近づいていく。
「我慢するから辛いんだ。過去も、未来も消してしまえばいい。オレと一緒に世界を壊そう」
そう言って日野の涙を拭った男の手はひんやりとしていて、長く鋭い爪が目立っていた。
同じだ。同じ破壊の力を持つ人間。刻と自分の二人だけだと思っていたが、他にもいたなんて……この男から離れなければ危険だと感じているのに縛られたようにその場から動けない。日野は震える声を振り絞り男に言った。
「嫌……この世界には、大切な人がいるの。だから壊さない。私は……誰も、何も傷付けない」
「駄目。オレと一緒に暴れよう」
ニッと口角を上げた男の手には、いつの間に取り出したのか、血液パックが握られている。
──まずい……そんなものをここで破られたら完全に我を失ってしまう。
日野は咄嗟に男から離れようとしたが、体が震えてうまく動かない。男は素早く華奢な腕を捕まえると、日野の顔に血液パックを押し当てて長い爪を食い込ませる。
鮮やかな赤い色が、日野の目の前で勢いよく弾けた。
血の匂いが辺りを包み込む。顔を手で塞がれ呼吸が出来ず、空気を求めて日野が口を開くと口内にドロリと血液が流れ込んできた。
「──っう、んん……」
「ちゃんと飲んで」
男はゲホゲホとむせ返り抵抗する日野を押さえ込み、ゴクリと血液を飲み込んだことを確認すると日野から手を離す。ベチャベチャと血の滴る音が響き、真っ赤に染まった日野の顔は、とても愉しそうに笑っていた。
「完成! ひと暴れしよう。オマエが騒ぎを起こしてる間に、オレはアイツからローズマリーを奪い取る……期待してるよ、オネエサン」
男はゴシゴシと乱暴に日野の顔についた血を拭いながらそう言うと、顔を近付け、そっと唇を重ねる。日野から離れ満足そうに笑うと、地面を強く蹴って飛び上がり姿を消した。
それから一分と経たないうちに、遠くから建物の壊れる音や街の人の悲鳴が聞こえ始めた。鼻をくすぐる血の匂い、人の叫び声が耳に心地良い。
堪えきれずクスクスと笑いを漏らすと、日野は傍にあった建物の屋根の上まで飛び上がった。逃げ惑う人々を見渡し、屋根伝いに街の中心へと戻っていく。
パラパラと明かりのつき始めたそこに降り立つと、逃げようとして足を挫いたのか、倒れたまま怯える女にニッコリと微笑んだ。
「──っひ!? やめて……殺さないで! お願いします! 助けて……殺さないで!」
青ざめた女の顔を見て、日野はケタケタと笑い出す。
「あ……あ……お願い……やめて」
震える女の首を掴むと、ギリギリと力を込めながらその体を持ち上げた。息を吸う事が出来ずにバタバタともがく女を見つめて笑っていると──突然、乾いた銃声が辺りに響き、日野の腕を銃弾が掠めた。
「──っ、ああ……!」
力が強くなる代わり、痛覚は普通の人間の何倍にもなる。日野は痛みに顔を歪めて女の首から手を離した。ドサリと落とされた女は悲鳴を上げて足を引き摺りながら逃げて行く。
銃弾の飛んで来た方を見やると、銃口を向けたままグレンが真っ直ぐにこちらを見つめていた。
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