第88話 守りたいモノ
ニタニタと目の前にいるフードの男が笑い出した。気味の悪い笑い方も、本が奴の声に反応したことも気に入らない。
空白のページに何かが書き込まれたようだが、よく見えなかった。見逃すより手早く殺した方が良いか……そう考え、刻が男を見据えると、フードの男は持っていた青い本をパタンと閉じた。
「ねえ、百人ってどのくらい? 街の人間を全部殺したらそのくらいになるのかな?」
「……力が欲しければ百人殺せと、本にそう書かれたか?」
「うん。でも、オレもう百人くらいは殺してるんだ。だから、あとはオマエの血があれば力が手に入る」
「それなら無理だ、残念だったな。貴様はここで死ぬ。楽にしてやるからジッとしていろ」
そうやって刻と話をしながらも、フードの男は倒れている街の人間から大きな鉈を奪おうとしている。
スキだらけだ……背を向けた男に、刻は一気に距離を詰める。一発で仕留めてやると振りかざした鋭い爪は勢いよく振り下ろされ、フードの男──ではなく、地面を抉った。
間一髪で避けた男は目を見開いて、嬉しそうに手を叩く。
「危ないなあ。ギリギリだった……あと少し避けるのが遅かったら死んでたかも。でも、凄い! 凄いよ。その力が手に入ると思うとゾクゾクするね」
パチパチと軽い拍手の音に刻の機嫌が少しずつ悪くなっていく。早く帰りたいというのに、面倒な奴に会い、面倒な事になってしまった。
アイザックやグレン以外の人間に攻撃を避けられ少しばかり驚きはしたが、人を何人殺していようが所詮はただの人間。百人殺したという事も本当かどうか分からない。
──さっさと片付けて、早く会いたい。
そう思い、ローズマリーとルビーの顔が頭に浮かんだ時、フードの男が彼女の名前をボソリと呟いた。
「……ローズマリー」
「貴様、何故その名前を知っている?」
眉間に皺を寄せた刻に、フードの男はヘラヘラと笑ってみせる。
「大切なモノなんでしょ? オマエの周りは調べてある。ローズマリー、可愛かったなあ……オレもあんなのが欲しいな。ねえ、貰っていい?」
「貴様には渡さん」
「じゃあ、この本は?」
「それも俺の物だ」
そう言うと同時に、刻はフードの男に飛びかかる。しかし、なかなか捕まらない。ヒラリヒラリと嘲笑うように刻の攻撃を躱しながら、男は笑う。
「街を潰した後だから疲れちゃった? まあ、これだけ暴れたらそうなるかもね。それと、血の匂いが濃くて気付かなかったでしょ? そこに来てるよ、ローズマリー」
「──なっ!?」
刻は驚き、男がニタニタと笑いながら指差す先を見る。しかし、そこには誰もいなかった。あるのは瓦礫と、死体の山。
しまった──嘘だと気付いた時には既に遅かった。フードの男が振り下ろした鉈が、刻の胸元へ食い込む。
そのまま勢いよく皮膚を裂き、ブチブチと千切れていった血管から体内を流れる血液が噴き出して、辺りに飛び散った。
「ぐあああああ!?」
余りの激痛に刻は膝をつき苦悶の声を上げた。胸元の傷はすぐに修復したが、皮膚を裂かれた痛みは常人の何倍にもなり刻を襲う。
声も上手く出せなくなり、意識が遠のいていく。噴き出した血が皮膚を伝いながらダラダラと地面に流れていた。すると、その様子を見てフードの男はゴクリと喉を鳴らすと刻に近付いた。
「クラクラ、クラクラ……クラクラする? 血が沢山出た。これはオレが……いただきます」
そう言って、男は刻の前に膝をつくと、傷一つ残らず綺麗に修復した胸元についている血液をジュルジュルと啜った。口の中に広がる甘い血液を嚥下する。
──ドクン。
その瞬間、心臓が飛び跳ねるように脈打った。髪と同じ深紫の色をしていたフードの男の目は金色に変わり、噛み癖のせいでボロボロになっていた爪も長く鋭く変化した。
全身に力が満ち溢れ、頭の中には沢山の人間の苦しむ声がこだまする。
「大丈夫……オレが全部終わらせてやるから。オマエらも、オマエらが苦しむこの世界も、オレが潰してやるから」
フフフ……と男が満足気に笑った瞬間、刻がハッと意識を取り戻した。溺れた水の中から漸く顔を出した時のように空気を一気に吸い込み、反射的に目の前の男を殴り飛ばした。その拍子に男が持っていた青い本は刻の足元にバサリと音を立てて落ちる。
腹部を強打された男は苦悶の表情を浮かべて倒れていたが、口元の血を拭いながら笑みを浮かべるとフラリと立ち上がった。
「あんなに驚いて、ローズマリーのこと大切みたいだね」
「……貴様には関係無い」
「散々他人の大切なモノを奪っておいて、自分の大切なモノは奪われたくないって? 都合がいいねぇ。でも、戦えない女と子供なんて一人で守りきれる?」
「……守ろうなどとは思っていない……俺は、目の前の目障りな存在を破壊するだけだ」
「いいねぇ、そうでなくちゃ。でも、守る気が無いならローズマリーはオレが貰う。子供は……まあ、ついでに貰っておくよ。この世界も、オマエも、全部ブッ壊した後に……ローズマリーと子供を殺して、オレも死ぬ。過去も未来も全て無かった事にしてやる」
「無かった事になど……出来な……」
刻は言葉を返そうとするが、既に限界がきていた。傷は治っている筈なのに、受けた痛みが強過ぎて意識が続かない。
このままでは殺される……自分が死ねば、ローズマリーとルビーは誰が守るのか……ここで死ぬわけにはいかない。生きて、二人を守らなければ。
「……守る……俺が?」
頭に浮かんだその思いにフッと自嘲すると、刻は青い本を掴み、大きく息を吸った。全神経を集中させ地面を強く蹴ると、舞い上がった砂煙に紛れて、男が瞬きをする間にその場を離れた。
「──アイツ、逃げたな」
ゲホゲホと何度も咳をしながら、フードの男は目に涙を浮かべる。
男の元から逃げ出した刻は、宿を取っている街へと向かっていった。いつも連れている愛馬は二人の身に何かあった時のためにと街に置いてきている。今は自力で戻るしか方法はない。目の前が霞み、朦朧とする意識の中、刻は歩き続けた。
──刻! 大丈夫!?
──刻! 貴方どうしたの!? 一体、何があったの? 刻! しっかり……
それから、どのくらいの時間が経ったのか分からない。自分の名前を呼ぶ高い声と、鼻をくすぐる甘い香りに安堵して、そっと目を閉じた。




