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第86話 有り得たんだ……

 長く白い睫毛が微かに揺れる。無意識に薄く開いた瞼の向こうで、ゆらゆらと何かが揺れているような気がした。


 徐々に意識がはっきりとして薄ぼんやりとした視界が鮮明になっていくと、それが暗い部屋を照らす蝋燭の明かりだと気付く。


「ここは……俺は一体」


 あれからどうなった? 記憶の糸を手繰るように再び目を閉じるが、どうしてここにいるのか思い出せない。目を開けて、暗い空を映した窓に目を向けると、ここが泊まっている宿だということだけは思い出した。


「──っ、ローズマリー! ルビー!」

「シッ! 静かにしてください。泣き疲れてやっと寝たところなんです」


 二人の名前を呼びながら刻が勢いよく上体を起こすと、静かな声にそう言われた。ハッとして声の主を探すように部屋を見回すと、椅子に腰掛けたアイザックが唇に人差し指を当ててニッコリと微笑んでいた。膝には青い本が開かれている。


「大変だったんですよ、こんなに可愛い女性二人に一度に泣かれたら困ってしまいます」


 アイザックの視線の先には、もう一つのベッド。そこには、暗い部屋の中でも気付く程に目の周りを真っ赤に染めて眠るローズマリーとルビーがいた。


「愛されてるじゃないですか。貴方も隅に置けませんね」

「アイザック……貴様、何の用だ? どうしてここにいる?」

「何の用? どうして? それは私が聞きたいですね。貴方、血塗れで意識も殆ど無い状態で彼女達の元へ戻って来たんですよ。貴方がそんな風になるなんて余程のこと……一体、何の用があって何処へ行っていたんですか? そしてそこで何があったのか……刻、話して頂けますね」


 蝋燭の影が、アイザックの青い瞳にゆらゆらと映り込む。有無を言わせない眼差しに、刻は疲れたように息を吐いた。


「その前に聞くが……」

「手は出してませんよ、ご心配なく。怪我もしてませんし、気になるのは貴方のせいで赤く腫れてしまった瞼くらいですね」

「……それならいい」


 ホッと安堵の表情を浮かべた刻に、アイザックがクスクスと笑って立ち上がる。持っていた青い本をパタンと閉じて、刻へ手渡した。


「いつの間にか素直になりましたね。昔はあんなに捻くれていたのに」

「煩い」

「はいはい。その本は返します。以前に見せてもらった時と変わらず私にはどのページも読めなかった。残念ながら特別な力が突然開花するなんて有り得ない話のようです」


 深い溜め息を吐きながら、せっかく全てのページを見たのに何も収穫がなかったと肩を落とす。再び椅子に座り直したアイザックに刻の小さな声が届いた。


「いや、有り得たんだ……」

「え?」

「長い深紫の髪をしてフードを被った男が、俺やあの女と同じ力を手に入れた……無理矢理な。俺は意識が保てなくなり奴から離れた……今どこにいるのかは分からないが、ローズマリーが狙われている。だから奴はこの街に来ている可能性も……それに早く片付けなければ、この世界は一面、血の海だ」


 (まく)し立てるようにそう言うと、刻は唇を噛んだ。悔しさからギリギリと力が強くなり、口端から血が滲む。

 あいつにまんまとしてやられた。数時間前の出来事が鮮明に蘇る。


「どういうことですか? もう少し詳しく聞かせてください」


 ただならぬ刻の様子に、アイザックから笑みが消えた。何故ローズマリーが狙われているのか……ポツリポツリと話す刻の声に、耳を傾ける。起きた出来事、それを語るための言葉一つ一つが、アイザックの眉間の皺を増やしていった。

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