第82話 貴女はくれぐれもお気を付けて
「ザック先生。私から、少し聞きたいことがあります」
そう言って、日野は真っ直ぐにアイザックを見つめた。改まった様子に、三人はどうしたのかと驚いている。すると、日野の真剣な表情に、アイザックはニッコリと微笑むと、優しい声音で尋ねた。
「どうしました?」
「ここのところ、体がおかしいんです。今までは、あの青い本に近付いた時だけ頭が痛くなって、体に変化が起きてたんですけど……今は、血の匂いにも反応して、抑えられなくなってしまって……」
「血の匂いに……他の匂いも分かりますか?」
「はい。グレンやハルやアルの匂いも分かります。覚えることが出来れば、他の人の匂いも分かるようになると思います。それと……」
「それと?」
「それと……あの……」
アイザックが首を傾げると、日野は三人をチラチラと見回した。そして、言いづらそうに言葉を濁す。
あまり男には聞かれたくないことなのだろうか? そう思い、アイザックは自分の右耳をちょいちょいと指差した。それに気付いた日野は、顔を赤くしてアイザックへ駆け寄る。
ゴニョゴニョと小さな声で耳打ちをすると、それを聞いたアイザックは、ああ……と小さな声で言って、困ったように笑った。
そして、再びちょいちょいと指差して、今度は日野に耳を貸すように促す。何か解決策を教えてくれるのかと、日野が耳を傾けた時、無防備になったそこに、アイザックがフッと息を吹きかけた。
「ひゃあっ!?」
「んなっ!?」
「お、いい声で鳴きますね」
予想外の出来事に、日野は耳を押さえて顔を真っ赤にしている。何も言わず見守っていたグレンも、これには驚いた様子で立ち上がった。グレンは日野の腕を引くと、自分の胸の中に収める。ギュッと抱き締めて、アイザックを睨み付けた。
「何してやがる!? この、セクハラじじい!」
「やだなあ。触診ですよ、触診」
「ふざけんな! どう見てもセクハラだろうが!」
「まあまあ、そんなに怒らないで」
そう言って、アイザックは両手を上げて降参のポーズを取る。怒るグレンを余所に、その端正な顔から笑みを消すと、下ろした腕を組んで、真剣な眼差しを日野へ向けた。
「そうですね……血の匂いに反応するようになったのは、何度か変化を繰り返したことで、力が強くなっているせいでしょう。鼻が効くようになったのも同じ理由です。それはまだ良いとして……刻と同じ体質であれば、心配なのは傷を負った時の痛みの方ですね」
「傷を負った時の痛み……ですか?」
「はい。刻も、日野さんと症状の出方が同じでした。徐々に全身の感覚が鋭くなり、その中でも、痛覚と嗅覚は飛び抜けて強かった。匂いを嗅ぎ分けることが出来るようになり、治癒力も高くなります。しかし、それと引き換えに、変化を繰り返す度、傷を負った瞬間の痛みは普通の人間の何倍にも膨れ上がっていきます」
「傷を負った瞬間……その時だけって事ですか?」
「そうです。何かを傷付けた時、誰かから傷付けられた時、人は少なからず痛みを感じますが、あなた達二人は違う。普通の人間が完治までの間にジワジワと味わう痛みを、まとめて一気に味わうんです。傷はすぐに治りますし、痛みもすぐに消えます。しかし、傷を負った瞬間は、擦り傷でも気を失う程の痛みを受けることになるでしょうね」
「そんな……」
「日野さんはまだ大丈夫そうですが……これからが心配です。私の作った薬は、力を一時的に抑えるだけのもの。鋭くなった感覚を元に戻す効果はないでしょう」
「刻もそれは同じだってのか?」
「ええ。刻は力が強い分、体に受けるダメージは日野さんより多い筈です。他人を殴っても、建物を壊しても、普通の人間の何倍も痛い。もちろん、誰かから殴られたり、斬られたりしてもね。それでも、力が抑えられない時は、何かを破壊するしかない……まあ、刻は男なので襲われることはまず無いと思いますが。日野さん、貴女はくれぐれもお気を付けて」
そう言って、意味深な笑みを日野へ向けたアイザックに、グレンは眉を寄せた。腕の中で大人しくしている日野は、まだ顔を赤くしている。
一体、コイツはおじさんに何を相談したんだ……俺にも言えないような事なのか? なんだかモヤモヤする。不機嫌になったグレンが、抱き締める腕に力を込めると、日野があわあわとアイザックへ話しかけた。
「うあ……あの! そ、そういえば! ザック先生は刻のことを昔から知ってるんですか?」
「ああ……昔、刻と一緒に過ごしていた時期がありまして、実は彼が小さい頃から知っているんですよ。彼にこれ以上、痛い思いをさせたくなくて、薬を作ったりもしてますが、なかなか上手くいかない。何とかしてあげられたら良いんですけどね。既に心も、体も、傷だらけでしょうから……」
刻の傍にいるという女性が、彼を癒す存在であれば良いのだが……そんな思いが頭を過ぎる。どんな人間か、一度会ってみたい。
妙にしんみりしてしまった空気をとりなすように、アイザックはニッコリと笑った。
「さ、話はこれくらいにして。洗濯もしないといけないんでしょう? さっさと済ませて、お祭りに行きましょう」
◆◆◆
あれから、グレンはこの街の情報屋を探しに行き、日野は宿屋の洗濯コーナーで洗濯を済ませるために、先程まとめたみんなの服を持って出て行った。
今はアイザック、ハル、アルが部屋で留守番をしている。忙しい二人を待ちながら、残された二人と一匹でのんびりと遊んでいた。
そして、ハルとアルの相手をしながらも、アイザックは日野に相談された悩み事について考えていた。ゴニョゴニョと耳元で遠慮がちに伝えられたあの言葉を思い出す。
──私、おかしいんです。触れられたり、耳元で囁かれたりすると体が反応しちゃって……グレンだけじゃないんです。さっき、ザック先生に抱き締められた時も……体が勝手に……なんか敏感になってるっていうか……これも、私が力をコントロール出来ないせいですか?
真剣な顔でそう言ってきた日野を思い出すと、笑いが堪えきれない。グレンだけじゃないんです、と言ったという事は、グレンにも触られたり、耳元で囁かれたことがあるという事だろう。からかうネタが出来て嬉しい限りだ。
変化を繰り返す度に嗅覚や痛覚が強くなるが、それと同時に体も感じやすくなっていく。
しかし、襲われないように気を付けていればそれほど生活に支障が出るものでは無い。警戒心の無い日野さんは少々心配ではあるが……悩んでいるようだったし、後でこっそり大丈夫だと伝えてあげよう。
そういえば、刻も昔そんな事を相談してきた気がする。顔を真っ赤にして、凄く言いづらそうに。
昔のことを思い出して、ククク……と堪えきれなくなった笑い声が口から漏れると、ハルとアルが首を傾げた。
「ザック先生、どうしたの? 急に笑い出して」
「いやあ、特異な存在とは大変だな〜と思いまして」
「どういうこと?」
「ん〜? もう少し大人になったら教えてあげますよ」
そう言うと、ハルはムッとして頬を膨らませる。さっきは気を遣っていたのか、ついていけなかったのか、ハルはなかなか話に入ってこなかった。我慢させてしまった分は沢山遊んであげよう。
「さあ、次はトランプでもしましょうか」
「ほんと!? やったー! じゃあカードはボクが配るね!」
パッと明るくなった無邪気な笑顔に、アイザックはニッコリと笑い返した。




