第74話 お姉ちゃんを呼んだ理由
「……ちゃん、お姉ちゃん」
誰かの呼ぶ声が聞こえて、日野は目を開ける。すると、目の前に緑色の大きな目が二つ、仰向けに横たわる日野を上から覗くように見つめていた。
「っわ!?」
間近にあったその幼い顔に驚いて体を起こすと、アルバートも日野の声に驚いて体を後ろに引く。その拍子によろめいてしまい、アルバートは尻餅をついた。目を丸くして驚いているようだったが、何度か瞬きをした後にアルバートはクスクスと笑い出す。
「そんなに驚かないでよ。おはよう、お姉ちゃん」
「ハル……じゃなくて、アルバート?」
「そう。また会ったね」
「うん、また会えるなんて思ってなかった……でも、どうして?」
そう言って日野が首を傾げると、ハルとそっくりの幼い顔がニコリと微笑む。辺り一面にはたくさんの苺が実り、ポカポカと温かい。ここは季節が変わらないのだろうか……ずっと、春が続いているようだった。
ひらひらと辺りを舞うモンシロチョウが、日野の左手に止まる。促されるようにそこへ視線を向けると、起き上がった時に力を入れたのだろう、長く鋭い爪が地面から生える草を握り締めていた。その手をパッと離して、左手をそっと目に当ててみる。
きっと、瞳の色も金色になっているのだろう……でも、どうして。一体ここにどうやって来たというのか。困惑した様子で黙ったままの日野の隣に、アルバートがポンっと腰を下ろした。
「向こうのお姉ちゃんはまだ眠ってるよ」
「向こうって、ここは夢の中なの?」
「うーん、ちょっと違うけど、似たようなものかな。ここは、青い本の中。そして、僕の空間でもあるんだ」
「ん?」
アルバートの説明に、どういうこと? と言いたげに日野が目を細めて首を傾げる。頭の上に沢山の疑問符が浮かんでいるようなその様子に、アルバートはまた笑い出した。
「よく分かんないよね。僕もよく分かってないんだ。でも、青い本の中には沢山の空間があるみたい。シャボン玉みたいにプカプカ浮かんでて、その一つが、この場所。時間は僕が死んだ時のまま止まってるから、日が暮れることも、歳を取ることもないけど、何故か周りの空間は僕の好きなように出来るから、苺でいっぱいにしちゃった」
「そうなんだ……ここはアルバートが作ったのね。凄く可愛くて素敵な空間だね。苺も美味しそう」
日野がそう答えると、アルバートは嬉しそうに笑う。幼い無邪気な笑顔に癒されるが、同時に、目の前で笑うアルバートはやはり亡くなっているんだと感じると胸が締め付けられた。
しかし、ここが青い本の中だなんて、とても信じられない話だ……青い本の中だから、このアルバートの空間に来た時は爪が鋭く変化しているのだろうか……? そんな事を考えていると、以前聞くことが出来なかった疑問が頭に蘇った。
「そう言えば、アルバートはなんで私をあの世界に呼んだの? 私を呼んだのはアルバートなんでしょ?」
「お姉ちゃんを呼んだ理由? そうだなー……僕、ずっと待ってたんだ。グレンと上手くいきそうな人を」
「へ?」
アルバートの口から飛び出した意外な回答に、日野は素っ頓狂な声を上げる。次第に頬が熱を帯び、顔が赤くなっていくのを感じた。すると、その様子を見たアルバートがケラケラと腹を抱えて笑い出す。弟のハルも常ににこやかではあるが、兄のアルバートはハル以上によく笑う子だった。
「冗談だよ。お姉ちゃん分かりやすくて面白いね」
「い、いや、そんな。ち、ちょっとビックリしただけだから、ほんと」
日野は両手をブンブンと振りながら赤くなった顔を必死でごましているが、アルバートは楽しそうにそれを見ていた。すると、悪戯っ子のような笑みが、ふと真剣な表情に変わる。
「……本当はね、刻と同じくらい、今生きている世界を抜け出したいと思っている人が必要だったんだ。突然違う世界に放り出されたら、刻を止める前に帰りたくなっちゃうでしょ? だから、元の世界に帰りたいと思わない人。そして、ハルやグレンと仲良くしてくれて、刻と同じように力をコントロール出来る人じゃなきゃいけなかった」
「確かに、元の世界に戻りたいとは思わないかも……ハルやグレンのことも好きだし……でも、私は力をコントロール出来ない。グレンやハルを傷付けた……」
「大丈夫。今はその姿でも平気でしょ? 辛くなったら思い出して、この場所を。受け止めてあげて、みんなの叫びを……そろそろ、時間だね。向こうのお姉ちゃんが、目を覚ますよ」
そう言って寂しそうに微笑んだアルバートの姿が薄れていく。辺り一面に実った苺も、ヒラヒラと飛び回るモンシロチョウも、その鮮やかな色を失くしていった。
「待って! アルバート!」
「僕もグレンのこと大好きだよ! 上手くいくといいね!」
突然の別れに慌てる日野に向かって、パタパタと手を振りながら、アルバートは姿を消した。そして、真っ暗闇が辺りを覆う。うっ、と小さな呻き声を上げて日野が目を開けると、目の前には、ランプの炎に照らされながら、驚いたようにこちらを見るグレンがいた。




