第73話 治ってる
ぐったりと倒れた日野へ、グレンとハルは駆け寄った。後頭部の傷から溢れた血が地面を濡らし、赤く染めている。刻が力を出した状態で思い切り叩きつけられたのだ。
幸い背負っていたリュックのお陰で背中は守られたようだが、いくら同じような存在だから大丈夫だと言われても、頭部への衝撃は凄まじかったはず……意識の戻らない日野に、グレンはチッと舌打ちをして、日野が背負っていたリュックを下ろさせると、その華奢な体を抱きかかえた。
近くの木に背を預けるように座らせて、自身のリュックも下ろす。頭の傷を手当てしようと消毒液を探していると、日野の様子を見ていたハルがグレンに手招きした。
「グレン、これ……」
ハルは、顔を伏せたまま目を覚さない日野の後頭部を指差す。べっとりと血の付いた黒髪に触れながら、ハルが傷口を見るように促すと、そこにある筈の傷が綺麗に消えていた。
「治ってるよ」
「まさか……前に顔を殴られた時だって完治まで時間がかかってた筈だぞ」
「やっぱり、力だけじゃなくて体質も刻と同じってこと?」
「……そうだな。変化を繰り返すごとに力も強くなってるようだからな……治癒力も上がっているのかもしれない」
あの時、刻が現れる少し前、日野が爪を立てた木に一瞬で風穴が空いた。日野は、自分の力に驚いたように目を丸くしていた。それに、匂いに敏感になっていることもそうだ。変化を繰り返すごとに日野が日野でなくなっていっている。
普通の体に戻す方法もなく、変化した日野を止められる方法は、今はおじさんの薬だけ。しかし、気を失わせる程の強い薬をずっと打ち続けるのは危険だ。だからおじさんも、最低限の量しか渡さなかったのだろう。
薬を使わずに力を抑える為には日野の気力に頼るしかない。目の前で苦しんでいるのに何もしてやれない自分に、グレンはグッと唇を噛んだ。すると、先程の刻の言葉がふと頭に蘇る。
言った筈だ……
言った筈だ、確かに刻はそう言った。いつ……いつその話をした? モヤのかかった記憶を辿りながら、いつその話をしたのかを思い出す。
以前に刻と同じような話をしたのはいつだ……眉間にシワを寄せ、地面を見つめる。ぐるぐると頭を巡る記憶を整理して、グレンはハッとして顔を上げた。
元に戻す方法はない。よほどの精神力がなければ、そのうち自我を失い破壊の限りを尽くす化け物になる。
あの時だ……東の街で、刻は確かにそう言った。日野が、自我を失う……? このまま変化を繰り返し、日野の気力が負けた時、この世界をただ破壊し続けるだけの化け物になるとでも言うのか?
「グレン」
聞き慣れた幼い声に呼びかけられ、ハッとする。声のする方へ目をやると、ハルが眉を八の字にして困ったように微笑んでいた。
「すまん、ボーッとしてた」
「ううん、大丈夫。ねぇ、グレン。ショウちゃんは、ずっとショウちゃんのままでいてくれるかな?」
日野に寄り添いながら、ハルがそう言った。不安や悲しみが入り混じったような、今にも泣き出しそうな幼い顔に、胸が締め付けられる。また、こんな顔をさせてしまった……二年前、家族を亡くしたハルの表情が頭を過ぎる。
「大丈夫だ。こいつなら何とかなる。刻だって自我は保ってるんだ。薬だってある。希望が無くなった訳じゃない」
そう言って、グレンは小さく息を吐くと、ハルの頭を撫でた。不安に揺れる緑色の瞳を見つめて、フッと微笑む。
「今日はもう休もう。刻を追うのは明日からだ」
「うん」
「俺達はもう誰も失わない」
「うん」
「分かったなら、その血が付いた手をサッサと洗え」
失わない。もう誰も失わない。
グレンは自分に言い聞かせるように心の中でそう呟くと、ボトルを取り出して、中に入っていた水をハルの両手へと落とした。パシャパシャと音を立てて落ちていく水が、ハルの小さな手に触れる。
べっとりと付いた日野の血液が洗い流され、いつもの色白の手のひらが現れた。この小さな両手に、どれだけの悲しみを抱えているのか……もう二度と、ハルに悲しい思いをさせないように、日野を守らなければ。
この世界に二人しかいない特別な存在に、どう対処すれば良いのかハッキリと分かった訳ではないが……何とかする。何とかしてやる。
眉間に深くシワを寄せ、グレンは日野を抱き寄せると、血の付いた髪に水をかけた。パシャパシャと血を洗い流すと、その黒い髪をそっと撫でながら、ハルへ声をかける。
「ハル、夕食の準備手伝えよ」
そう言って、日野を元の体勢に戻したグレンは、立ち上がって夕食を作る準備を始めた。コクリと頷いたハルも、グレンに駆け寄って手伝いをし始める。
会話も無く、食材の入った缶の無機質な音と、自然の音だけが混ざり合う山の中。気のせいか、辺りを照らす赤い夕焼けが、血の色に見えた。




