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第68話 バーカ

 新しい街に向かう途中の山の中。辺りがすっかり暗くなった頃、いつもより空に近いその場所で日野は星を眺めていた。


 見ていると悩みも不安も消え去ってしまうような、深く青いどこまでも広がる夜空に吸い込まれそうな感覚になる。手を伸ばせば、間近に迫る丸い月とキラキラと瞬く星たちにまで届きそうだった。


「綺麗だと思うか?」


 不意に声をかけられ、ハッとする。振り返ると、地面にあぐらをかいて揺れるランプの炎を見つめていたグレンが顔を上げた。パチリと目が合うと、なんだか照れ臭くなる。


「うん、綺麗だと思う。元いた世界の空はこんなに綺麗じゃなかったし、わざわざ見上げることも無かったから。グレンは綺麗だと思わないの?」

「毎日のように見てるからな。今更何とも思わない」

「そっか……」


 会話が終わってしまった。どうしよう……何か話さなければ……そう思いながらぐるぐると考えを巡らせるが、次の言葉が出てこない。その間もジッとグレンに見つめられていて、だんだんと頬が熱くなっていく。堪らず目を逸らすと、クククとグレンが楽しそうに笑い出した。


「考え過ぎ」

「ご、ごめん。なんて言おうか思い付かなくて」

「はいはい。もう星空は充分見ただろ? 明日も歩くんだ、見張りはしといてやるからサッサと寝ちまえよ」


 あわあわと狼狽(うろたえ)る日野に笑いながらグレンがそう言うと、会話下手な自分自身にしょんぼりと肩を落とした日野が小さく返事をしながらグレンの座っている方へ近付いて行った。


 ふと傍にある木に目をやると、ハルが木に背を預けてアルと一緒にすやすやと眠っている。夜の間、交代で辺りの見張りをするためにハルは早いうちから体を休めていた。


 年相応の可愛らしい寝顔に、おやすみなさいと心の中で呟いて微笑んだ時、日野は足元にあった木の根に勢いよく躓いてしまう。


「っわ?!」

「!? お前何やって……」


 ハルとアルに気を取られて足元への注意が抜けていた。日野の体は勢いもそのままにぐらりと傾く。


 顔から地面に思い切り叩きつけられそうになった瞬間、座っていたグレンが咄嗟に立ち上がり日野を抱きとめた。しかし、勢いよく胸に飛び込んで来たためにバランスを崩したグレンは日野を抱き締めたままドサリと後ろに倒れて尻を地面に打ちつける。その弾みで傍にあったランプが倒れ、フッと灯りが消えた。


「痛ってー! 何やってんだよ、危ねぇだろ」

「ごめん! ほんとにごめんなさい! 大丈夫!? 怪我してない!?」

「ああ、お前のせいで尻が痛……」


 グレンが言葉を言い切る前に体勢を整えた日野がバッと顔を上げる。すると、見上げた視線の先で栗色の瞳とバチリと目が合った。すぐそこにあるグレンの顔に日野の頬が再び熱くなる。


 近い!!? 近過ぎる……!! バクバクと鳴り響く心音を悟られないように日野は離れようとグレンの胸に手を当てて押そうとするが、ビクともしない。ギュッと強く抱き締められたまま動けなかった。日野は固まっているグレンを困ったように見上げて体を離そうと再び力を込める。


「あの、グレン。ちょっと近くて、その……うわっ!?」


 そう言いながらグレンの胸をグイグイと押し続けていると、突然後頭部を押され、日野の顔はグレンの胸元に押し当てられた。バタバタともがいても抱き締められた体はそれ以上動かない。


「ちょっと、グレン。離してくれないと私このままじゃ眠れないんだけど」

「うるせぇ、バーカ」

「バーカって……子供じゃないんだから」

「そうそう、子供じゃないんだからイチャついてないで早く寝てください」


 え? ……と日野とグレンの声が重なる。二人だけだった筈の会話に突然幼い子供の声が入ってきた。聞き慣れた声に、まさかと思い冷や汗が流れる。


 二人同時に勢いよく声がした方へ顔を向けると、いつの間に起きていたのか眠そうに欠伸をしながらハルが近付いて来ていた。日野とグレンは咄嗟に体を離して立ち上がり気まずそうにハルを見つめるが、ハルは気にもしていない様子で倒れたランプを拾うと傍にあったライターで火をつける。


「グレン、交代の時間でしょ?」


 そう言ってニヤリと楽しそうに笑った。人をからかうようなその笑みに、どこぞの医者の顔が思い浮かぶ。グレンは眉間に皺を寄せてジットリとハルを見つめた。


「お前ほんと誰に似たんだ」

「誰でしょ〜う。じゃあ暫くはボクが見張ってるから、二人とも少し休んでいいよ」

「ありがとう。じゃあ、休ませてもらうね。少し眠ったら私も交代するから」

「何かあったらすぐ起こせよ」

「うん、おやすみなさ〜い」


 手を振りながらニコリと微笑んだハルにそう告げると、二人はお互いに少し距離を取って横になった。


 トクトクとまだ心臓の音が耳に届く。鋭くなった嗅覚がグレンの残り香を感じさせ眠れそうになかったが、それすらも嬉しく思えて、日野はこっそりと微笑む。


 しかし今までいくつかの恋愛を経験してきた中でも、こんなにも胸が高鳴ったり目が合うだけで照れ臭さを感じたりしたのは初めてで、どうして良いのか分からなくなる。グレンは、どう思ったかな……。


 日野はギュッと目を閉じると、見張りの交代の時間まで眠らなければと無理矢理体を休めた。

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