第50話 元いた世界に戻りたいとは思うか?
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
内からも外からも、身体中に負のエネルギーがまとわりつく。誰かを傷付けたいわけではないのに、身体は勝手に周りを攻撃し、漂う血の匂いがたまらなく心地良かった。
しかし、地面を裂き、人を裂き、傷付ける度に心が軋み、壊れていく気がする。それを止めようとしているのか、日野の瞳からは無意識に涙がポロポロと零れ落ちていた。小柄なその身体にまとわりついて離れないのは、あの青い本に触れてきた全ての人間の怒り、悲しみ、憎しみ。それは大き過ぎて、とてもではないが一人で背負いきれるようなものではなかった。
自分なんて生まれて来なければ、こんなにも面倒な"生きる"ということもしなくてよかったのに。どこに吐き出すことも出来ない誰かの叫び声が頭の中にこだまする。何もかもぶち壊してしまいたい……そんな気持ちが身体中を支配し、周囲の音全てが不快な雑音で、目に見えるもの全てが敵に思えた。
しかし目の前で血を流す彼らの瞳が、その声が、壊れそうな日野の自我を保っていた。これ以上グレンとハルを傷付ける訳にはいかない。だって彼らは私にとって、大切な……大切な? 大切な、何だろう……彼らは私にとって、私は彼らにとって、何なのだろう。
出会った頃からの短い思い出がゆっくりと蘇り、また涙がポロポロと頬を伝った。誰かがその涙を拭ってくれたような気がして、日野は閉じられていた目をそっと開く。
「お目覚めか?」
聴き慣れた声がそう言った。ゆっくりと声のした方へ視線を向けると、患者用のガウンを着たグレンが溢れた涙を拭ってくれていた。その腕からは点滴の管が伸びている。
どうやらここは病院のようだ。その痛々しい姿を見ると、自分が傷付けてしまったんだという現実が目の前に突き付けられ、うまく目を合わせることが出来ない。
「グレン……グレン、私……ごめんなさい。グレンやハルを傷付けて……」
「ああ、お陰で死ぬところだった。後でハルにも謝っておけよ。あいつもなかなか痛い目にあったらしいからな」
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
目の前の傷付いたグレンに、どう謝れば良いのかも分からなくなっていた。すると、グレンの大きな手が日野の前髪をグシャグシャと撫でる。
「気にするな。女一人すら止められない俺が弱かっただけだ。守ってやれなくて、悪かったな」
「そんなことない。グレンは私を守ってくれた」
そう言って、日野は起き上がった。
聞こえていた。沢山の人間の叫び声の中に、グレンとハルの声が。温かくて、優しい声。その声が無ければ、元の自分には戻れなかったような気がした。二人には本当に助けられたのだ。そう思い真っ直ぐにグレンを見つめていると、グレンが寂しそうな顔をして呟いた。
「なあ、お前。元いた世界に戻りたいとは思うか?」
「……え?」
「いや……何でもない」
その問いかけに日野が驚くと、グレンはバツが悪そうに目を逸らした。やっぱり、私は危険な存在なのだろう。刻のように沢山の人を殺してしまう前に、元の世界に戻った方が良いのではないだろうか……でも、戻りたくない。もっと、グレンの傍に……グレンの傍に? どうして……。
ふと湧き上がった気持ちが何なのか分からなかった。その気持ちを隠すように日野は俯く。すると、それと同時に病室の扉が勢いよく開いた。
「グ〜レ〜ン〜」
「げ」
怒りをまとった低い声が病室に響き、扉の方へ振り返ったグレンは顔を引きつらせる。そこにいたのはアイザックだった。アイザックは怒りを隠す事なくズカズカと病室へ入ってくると、グレンの前でピタリと止まり、手に持っていたバインダーで、その栗色の頭を力一杯殴った。
「いってぇ! 怪我人に何すんだよ!」
「あなたねぇ、あれほど動くなと言ったでしょう!! ただでさえあなたの血は珍しくて輸血も出来ないんですよ! お願いですから、もう少し大人しくしていてください!」
「だからって殴るなよ! 医者ならもう少し患者に優しくしたらどうなんだ!」
かなりの痛みだったのだろう。頭を押さえながらグレンは目に涙を溜めている。しかしそれよりも、グレンの血が珍しいというのはどういうことなのだろうかと日野は首を傾げる。医療についての知識はないが輸血が出来ないなんて聞いたことがない……気になって二人を見ていたら、アイザックと目が合った。
「おはようございます。具合はどうですか?」
そう言って近付いて来たアイザックの大きな手が、日野の両手を包み込む。目の前でニッコリと微笑むアイザックに、日野は何だかホッとした気持ちになった。
「ザック先生……おはようございます。体は、大丈夫です。あの、またご迷惑をおかけしてしまって、すみませんでした」
アイザックに手を取られたまま日野が頭を下げると、顎をクイっと持ち上げられ、無理矢理顔を上げさせられた。日野が驚いて目を見開くと、アイザックはその焦茶色の瞳をジッと見つめて、再び微笑む。
「異常なし。薬の副作用も無さそうで良かったです。私のことは気にしなくて良いですから、ゆっくり休んでください」
グレンの話はまた今度、と耳元で小さく囁きながらアイザックは日野から離れ、元に戻ったその姿に、ホッと胸を撫で下ろした。
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