第46話 甘いココアと女の子
「落ち着かない」
慣れない部屋の中で、子供は悩んでいた。ソファーに座り直してはみたものの、やはり逃げた方が良いのだろうか。このままここにいても大丈夫なのだろうか。さっきの女の人は悪い人には見えなかったが……それに、こんなに綺麗な部屋で長時間過ごした経験がなく、なんだか落ち着かない。
ソワソワと部屋の扉と目の前のテーブルを交互に見ながら考えを巡らせていると、シャワーを終えた刻がこちらへやってきた。上半身は裸のままで、手には新しいシャツと青い本が抱えられている。片手で濡れた頭を拭きながら近付いてきた刻は、シャツと本をソファーに置くとキッチンへと向かった。
テーブルを挟んだ向かいに置かれた無防備な本、身を乗り出せば手が届きそうだ。そして刻は背を向けている。逃げるならもう今しかない……迷いを振り払うようにブンブンと頭を振って、子供はそっと身を乗り出し本に触れようとした。
「何をしている」
低く部屋に響いた刻の声に子供の身体がビクリと揺れる。急いでソファーに座り直して声のした方へ目を向けると、こちらを睨む黒い瞳と目が合い、身体が固まったように動けなくなった。
怖い……ゆっくりとこちらへ向かってくる刻の圧に耐えられず、ギュッと目を閉じて俯く。すると、コトっと何かを置く音がした。それだけで、特に殴ったり蹴ったりしてくる気配はない。恐る恐る顔を上げると、目の前のテーブルにココアの入ったカップが置かれていた。
ほわほわと白い湯気が立っている。そう言えば、部屋が冷えていて雨に濡れた体には少し肌寒かった。向かいに座る刻は同じものを飲みながら寛いでいる。作ってきてくれたのか? 戸惑いながら見つめていると、再び目が合った。
「猫舌か? 冷めるぞ」
「え? あ、ありがとう」
あれ……意外と優しい。人を襲う殺人鬼のはずなのに。
促されるまま手に取ったココアは程良い熱さで、冷めた手のひらがポカポカと温まる。でも、本の話を聞きたいと言っていたし、それが終わったら私も用済み。そうなれば、この世界からもさよならだな。そんな事を考えながら出されたココアを口にした。
すると口内に衝撃的な甘さが広がり、驚き目を見開いた子供はケホケホと勢いよく咳き込んでしまう。
「あまっ!? なにこれ? 甘過ぎでしょ!」
「ココアだからな」
「いや多分これココアだからとかじゃないよ!? 異常だもん! 一瞬毒かと思った……一体どんな作り方したらこうなるの!?」
「失礼だな。ココアならこのくらいの甘さが丁度良いだろう。飲み慣れていないものは最初は口に合わないものだ。我慢しろ」
「あんた病院行った方がいいよ」
そんな訴えを気にする様子もなく、異常に甘ったるいその飲み物を平然とすする刻に、甘党なんだなと心の中で呟きながら子供は体を温めるため仕方なく飲み干す。その甘さと温かさにポカポカと身体が温まった頃、買い物に出かけていたローズマリーが戻った。
◆◆◆
「なん……だ、これはー!」
シャワーブースの方から子供の叫び声が聞こえ、小さな棒のついた飴をコロコロと口の中で転がしながら青い本をめくっていた刻が顔を上げる。買い物から戻ったローズマリーが手当てと着替えをさせるために子供とシャワーへ向かい、一人の静かな時間が流れていたが、その叫び声を皮切りに途端に部屋の中が騒がしくなった。
「煩い」
パタンと本を閉じ、そう言ってため息を吐くと、シャワーのある部屋の奥から子供がバタバタと飛び出してくる。涙目になっている子供は刻の方へ真っ直ぐ駆け寄ると、その足にしがみついた。手当てされた腕には包帯が巻かれ、赤みがかった髪は綺麗に乾かされサラサラと揺れている。
そして、大きなリボンの付いた黄色いふわふわのワンピースを着せられ、そこから伸びる小さな足にはフリルの付いた靴下が履かせられていた。すると、子供を追ってローズマリーも刻の方へ駆けてくる。
「待って! 髪の毛も可愛くしてあげるから」
「やだよ! 髪の毛までくるくるにされたら恥ずかしくて外に出られない! しかも、なんでよりによってこんな服なんだよ! 私はもっと普通のシャツとズボンで良かったのに!」
「あら、照れなくても良いのよ。とっても似合ってるわ」
「ねえ、あんたからも何とか言ってよ! こんなことになるなんて聞いてない!」
そう言って子供がポカポカと足を殴りながら必死に訴えてくる。そうか、この女はそういう趣味だったなと目の前に来たローズマリーを呆れたように見上げると、生き生きと目を輝かせながら、彼女は持っているコテをパシパシと手に当てて、その温度を確認していた。刻は口に含んだ飴をコロコロと転がしながら視線を子供へ戻す。
「貴様が新しい服が欲しいと言ったんだろう。わがままを言うな」
「言ったけど! 服欲しいとは言ったけど! 見てよ! これはちょっと、なんか……違うじゃん!?」
そう言って立ち上がった子供が、両手を広げて着せられたワンピースを刻に見せる。するとローズマリーが満足そうに手を叩いた。
「可愛いー! とっても女の子らしくなったわよ!」
「可愛くない!」
目に涙を溜めながら地団駄を踏んでいる子供がおかしくて、顔を伏せた刻は小刻みに肩を震わせる。ローズマリーに手を引かれ、再び鏡の前まで引っ張られていく子供の絶望したような叫び声が部屋の壁を飛び抜けて湖の中にまで響き、ユラユラと泳ぐ魚達を驚かせた。




