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第45話 湖の街

 刻は馬を預けた後、足早にある場所へ向かっていた。本を奪われ、特に行くあても無い子供は大人しく後をついてきている。見当たらなかった青い本は、馬の鞍に付いていた小さなバッグに入っていたようで、今は刻が小脇に抱えていた。


 後ろから奪い返す隙を狙ってジッと見つめていると、ある建物の前で突然刻が立ち止まる。その長い足にぶつかり痛めた鼻を押さえながら、子供は建物を見上げた。建物には大きな字で何かが書いてある。


「……なんて読むの?」

「貴様、字も読めないのか? ホテルだ」


 そう言って刻はスタスタと中に入っていき、受付に声をかけると、階段を降りていく。その後について行った子供は、階段を降り始めると目の前に現れたその光景に感嘆の声を上げた。


「わあ……すごい。すごい、すごい! 魚だ。ねぇ、魚だよ! まるで水の中にいるみたい」

「水の中だからな。この街は殆どが湖の下にある。地上に出ている建物は街の入り口のようなものだ……キョロキョロしていると転げ落ちるぞ」


 ガラス張りになった壁の向こうには、透き通った深い湖が広がっていた。湖の中に棲んでいる色鮮やかな魚達がヒラヒラと優雅に泳ぎながら目の前を横切っていく。その美しい姿に、子供は目を輝かせた。


 目の回るような螺旋階段をトントンと軽快に降りながら、初めて見た不思議な世界を楽しんでいるようだった。そうやって暫く階段を降りていると、目的の階についたようで刻が扉を開ける。再び建物に入ると中は落ち着いた内装のホテルになっていて、刻は一番奥の部屋へと向かい、その扉をノックした。


 中に誰かいるのか? キョロキョロと辺りを見回しながら後をついてきていた子供が、警戒して刻の後ろに隠れる。すると、カチャリと鍵の開く音がして、扉の向こうから栗色の髪の可愛らしい女性がひょっこりと顔を出した。


「刻、おかえりなさい。あら、その子は?」


 愛しそうに刻を見つめながら迎えると、その後ろに隠れながら睨んでいる子供と目が合い、女性は首を傾げた。


「ローズマリー、飯と服を用意してやれ」


 そう言って室内にあるシャワーへ向かう刻の背中に、新しいシャツを置いている事を伝えると、ローズマリーはその場に取り残された子供の前にしゃがみニッコリと微笑んだ。


「刻が子供を連れて帰って来るなんて初めてだわ。お腹空いてるの? 何か食べたいものはある?」

「え、と……なんでもいい」


 雨に濡れちゃったのね、と湿った髪を撫でながらローズマリーがそう尋ねると、子供はぎこちなく返事を返す。人に髪を撫でられたのなんて初めてだった。ほんのり甘く優しい香りが鼻をくすぐり、なんだかホッとする。すると、ふいにローズマリーが子供の手を取った。


「あなた、傷だらけだと思ったらこんな大怪我もしてるじゃない」


 グイッと引っ張られた腕を見ると、地面に擦って出来た傷から血が滲んでいた。気絶していたせいですっかり忘れていたが、意識し始めるととたんに痛みが出てきた。ズキズキと疼く腕に顔を歪めていると、その手を繋いだまま、ローズマリーがゆっくりと立ち上がる。


「ちゃんと手当てしましょう。でも、このままじゃ風邪引いちゃうわね。服もすぐ準備するから、刻が出たら一緒にお風呂に入ろうね」


 そう言って、ローズマリーは子供の手を引いて部屋に招き入れる。濡れた体をタオルで拭いてソファーに座らせ、待っているように伝えると、手当てに必要な物と服を買ってくると言ってローズマリーは部屋を出て行った。


 静かになった室内。シャワーの音が微かに聞こえる。ソファーから立ち上がりシャワーブースのある場所を覗くと、刻はこちらに背を向けて返り血を流していた。そして、大きめの鏡の前に青い本が無造作に置かれている。


 今なら、本を奪い返して逃げる事が出来るかもしれない。生まれ変わる為には金色の瞳の人間に殺される必要があるが、金色の瞳は刻以外にもいる。あの人……ここから逃げて、あの日野憧子と名乗った人に殺してもらえば。そう考えてもみるが、何だか逃げる気になれなかった。ローズマリーに撫でられた髪にそっと触れる。


 自分に向けられた穏やかな笑顔が頭に浮かび、寂しそうに眉を下げると、子供はそっとソファーの方へ戻った。

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