第202話 再会 (完)
頬に柔らかな風を感じて日野はゆっくりと目を開いた。暖かい空気と草木の香りがなんとも心地良い。目の前には鮮やかな緑が広がっていて、ここが森の中だと気づくのにそう時間はかからなかった。
どうやってここに放り出され、いつからここに横たわっていたのかわからない。仰向けに転がり空の方へ視線を向けると、生い茂る木の葉の隙間から太陽の光がキラキラと差し込んでいた。この場所がちょうど木陰になっているせいで、長い昼寝から目が覚めたような気分だった。
日野はグッと身体を起こして、座ったまま周囲を確認してみた。グレンたちと離れたあの日の季節は冬だったはず。しかし今いるこの場所は見渡す限り夏一色だ。冷たい雪は綺麗さっぱり姿を消して、枯れ木は再び青い葉を揺らしていた。
小さな花にチョウが止まっていたり、草の間からタヌキの夫婦がひょっこりと顔を出したり、自分が元の世界に戻っていた一週間程度の間にずいぶんと時間が経ったようだ。
服装はスーツのまま、ポケットをまさぐってみても何も入っていない。持っていたはずの財布も携帯もバッグも無くなっていた。
「ここがどの辺りかもわからないし、これからどうしよう。動物がいるなら近くに川があるはずだから、そこを辿っていくしかないかな……」
身一つで放り出されるならせめて街の中がよかったなあ。そんな愚痴を飲み込んで、日野は立ち上がった。もし、本当にグレンたちの世界に戻ってきたのなら鼻が利くはず。
そう思ってクンクンと匂いを嗅ぐが、以前のような感覚がない。破壊の力はどうなったのだろうか。そう思い、試しに近くの木を力一杯殴ってみた。
「う……ちょっと痛い」
以前なら殴った瞬間に風穴が空いていただろうが、今はビクともしない。そして、殴った反動で拳には激しい痛みを感じると覚悟していたのに、少しヒリヒリする程度で済んだ。
「破壊の力が無くなってる」
力が消えた。私にはもう必要なくなったということだろうか。あれだけ悩まされた力でも失ってしまうと何だか寂しいもので、日野は少し残念だと息を吐いた。嗅覚や体力が無くなったとなると、街を見つけるのも一苦労だろう。
「本当にまたみんなに会えるのかな? 会えるんだよね?」
トクトクと高鳴る胸を押さえて、一人呟いた。
それから日野は、暑さで体力をすり減らしながら森の中をぐるぐると歩き回った。みんな無事でいるだろうか。怪我は治っているだろうか。どうか元気でいてほしい。もしもまた会えたら、なんと声をかけたらいいだろう。歩きながらそんなことを考えた。
一歩足を踏み出すたびに、土の感触が、森の香りが、鳥のさえずりが、グレンたちと一緒に歩んだ日々を思い出させていく。しかし、甦るのは楽しい記憶ばかりではない。刻やローズマリーはどうなっただろうか。オリバーは……?
消えていった友人たちが、自分と同じようにこの世界へ戻ってくるとは限らない。どんなに望んだってもう二度と会えない、そんな世界になっているかもしれないのだ。だがどんな現実であろうと、受け止めて生きていかなければならない。その覚悟は……できている。
日野はグッと涙をこらえ、上を向いた。すると、これまで緑ばかりだった景色が少しだけ変わっていた。遠くに見覚えのある建物の屋根を見つけたのだ。日野は思わず立ち止まり、息を呑んだ。
「ザック先生の病院だ」
日野の身体は無意識に駆け出した。歩き続けた足はすでに鉛のように重くなっていたが、そんなことはお構いなしに病院を目指して無我夢中で走った。石に躓いてよろけても、道がわからなくても、ひたすら病院の屋根だけを見つめて走り続けた。
だんだんと街が近づいてくる。会いたい──その気持ちだけで息の切れた身体を動かし続け、ついに街の入り口までたどり着いた。
「……本当に、戻ってこれた」
目の前に広がっていたのは、はじめてグレンと出会ったあの街だった。ゼェゼェと息を整えながら、日野は街を歩き出した。知っている顔がいないかと注意深く辺りを見回しながら進んでいく。
途中で誰にも会えなかったとしても、病院に行けばきっとザック先生がいるはずだ。はやる気持ちを抑えられない。歩くスピードはどんどん増していった。
明るく活気のある懐かしい街。昼の暑い時間だというのに、行き交う誰もが笑顔で生き生きと過ごしていた。この世界に、この街にずっと帰ってきたかった。
だけど、いざ本当に会えるかもしれないと思うと怖くなった。私がこの世界から消えた日……そこからかなりの月日が経っているはずなのだ。この世界が今日で何度目の夏を迎えたのか私は知らない。青い本が私をいつの日に戻したのかまではわからないのだ。
もし私が消えた日から、一度ではなく二度三度と夏を迎えていたら。ただ季節が変わっただけでなく、もう何年も時が過ぎていたら。もしも、グレンたちと出会う前の世界に戻されていたとしたら……みんなは私のことをまだ覚えているだろうか。
期待と不安で胸が苦しくなった。それでも、前に進まなければと、日野は人波をかき分けてズンズンと進んでいく。すると、ちゃんと前は見ていたつもりだったのに、突然何かにぶつかった。
「きゃっ?!」
「わっ?!」
自分より背の高いグレンやアイザックを探すのに夢中で、下をよく見ていなかった。ぶつかった衝撃で日野は後ろによろけてしまう。男の子の驚く声が聞こえた気がして、日野は咄嗟に手を差し出した。
「ご、ごめんなさい、大丈夫?」
そう言って日野は視線を落とした。するとそこには、尻餅をついたままポカンと口を開けている少年がいた。驚きのあまりお互いに時が止まったかのような感覚に陥り、街を吹き抜けた夏風が、少年の緑髪をサラサラと揺らして再び時間を動かした。
「……ショウ……ちゃん?」
ぶつかった少年はハルだった。ハルの頭の上で、アルが小さな手をブンブンと振っている。
また会えた。本当に会えた。嬉しさが込み上げて、日野は二人の名前を呼ぼうとした。
「ハル、ア──」
しかし言いかけた時、何かが飛びかかるように目の前に現れて、そのまま思い切り抱き締められた。栗色の髪に黒いコート。抱き締められているせいで顔は見えなかった。
けれど力強い腕の感覚と懐かしい匂いで、誰なのかはすぐにわかった。そして日野はポロポロと涙を流しながら、会いたいと願い続けていた彼の名を呼んだ。
「グレン」
「俺から離れるなって、あれだけ言っただろ……バカ女」
心なしか、グレンの声も震えていた。街の騒めきさえも見えなくなるほど、二人は強く抱きあった。そして愛しい人の腕の中で、日野は柔らかな笑みを浮かべて言った。
「ただいま、グレン」
◆◆◆
日野とグレンが、街の人から向けられる熱い視線と、ハルとアルから向けられた満面の笑みに気づいた頃。人波をかき分けてアイザックがやってきた。右手には酒を持ち、左手はルビーと手を繋いでいる。
「グレン、なにもそんなに全力で走っていかなくても……日野さんは食料じゃないんですよ」
日野が視界に入るや否や獲物を狩るかの如く走り出したグレンに、アイザックは呆れた様子で言った。そして、日野へ柔らかな笑顔を向けた。
「日野さん、お久しぶりです。体調はいかがですか?」
「お久しぶりです、ザック先生。私は大丈夫です。でも、ザック先生やみんなは……」
「元気ですよ。グレンも今やっと回復しましたしね」
日野から離れようとしないグレンを見て、アイザックがクスクスと笑っている。チラリと日野がグレンを見上げると、プイッとそっぽを向かれた。あまりに多くの人に見られていたせいで、少し照れ臭くなったようだ。
「お互いに話したいことも色々あるでしょう。さあ、みんなでご飯を食べに行きますよ」
そう言ってアイザックたちが再び人波の中へ消えていく。
「行くぞ、ショウコ」
「うん」
日野とグレンも手を繋いで歩き出した。
これから先、辛いことや苦しいこともあるかもしれない。だけど、その何倍も幸せな時間を作っていこう。小さな幸せをたくさん集めていこう。
私はこの世界で、愛する人の傍で、生きていく。
完




