第200話 アル
青々と色づく森の香りを乗せて、夏の風が街を吹き抜ける。ハルは一人、とある場所へ向かっていた。
日野憧子、鬼塚刻、ローズマリー・コールマン、オリバー・テイラー。そして黒い馬と……ネズミのアル。四人と二匹が姿を消したあの日から数ヶ月が過ぎ、季節はすっかり表情を変えていた。照りつける日差しがジリジリと肌を焼くが、すれ違う街の人々は暑さなどお構いなしで活気にあふれている。
ここはアイザックの病院がある街。ルースに運び込まれたあと、自分たちは待機していた医者や看護師に治療を受けた。そして幸いにも一命を取り留め、そのままこの街で暮らしていたのだ。兄貴とルースは孤児院を作ると言って自分たちの街へと帰っていったが、たびたび様子を見にこちらへ来てくれている。
あの冬からアイザックは順調に快方へ向かい、人間とは思えない程の早さで回復した。元々体力がある上に、刻の血が混ざったことで治癒力が高まったのだろうと言っていた。刻が消えたということを聞かされた直後は酷く落ち込んでいた様子だったが、今はもういつものザック先生に戻っている。
アイザックと同じく治療を受けて、グレンも徐々に回復していった。だが、治っていったのは目に見える傷だけだった。大切な人を二度も失い、ローズマリーという姉の存在について知ったことで、グレンが心に負った傷はあまりにも深かったのだ。外に出ることも少なくなり、病室でジッと何かを考えている時間が多くなった。季節がゆっくりと変わっていく中で少しずつ元気を取り戻してはいるようだったが、深過ぎる心の傷は、今でもグレンを苦しめ続けていた。
「……ショウちゃん」
ハルの口から、ポツリとその名がこぼれた。ショウちゃんがもし目の前で死んでいたのなら、グレンの心はもっと壊れていただろう。だが、ショウちゃんは消えたのだ。だから、どこかで生きているんじゃないか……グレンの病室を訪ねるたびに、そんな小さな希望がグレンの心を支えているように思えた。それに、同じように光の粒となって消えていったアルも、きっとどこかで……そう思いたかった。
「それにしても暑いなぁ……ルビーちゃん、大丈夫かな?」
街の中を歩きながら、ハルは汗を拭った。グレンのことも気になるが、ハルは今、ルビーのいるであろう場所へと向かっていた。病院から少し離れた場所に、今は空き家になっている家がある。この街に来てしばらくしてから、ルビーは何故かその裏庭によく座っていた。ルビーが空き家の裏庭にこだわる理由はわからないが、今日もきっとそこにいるだろう。
ルビーは大切な人を一度に二人も失った。自分にも同じような経験があるからこそ、そこから立ち直るのがどれだけ辛く苦しいことなのか少しは理解できる。だから、放っておけなかった。こうしてたびたび様子を見に来ることが、今では習慣になっている。
「ルビーちゃん」
裏庭に着いたハルは、ルビーに声をかけた。だが、返事はない。ルビーはいつも通り膝を抱えて座り込み、顔を伏せてジッとしている。刻に家族を殺され、何もかも失った時の自分と同じように。あの時、自分の目の前には家族の墓があった。しかし、彼女の前には墓すらない。刻とローズマリーの生死がわからず、墓を建てることすらできなかったのだ。
「体調は?」
そう尋ねながら、ハルはルビーの隣に腰を下ろした。
「もうお昼だよ。お腹空いたでしょ?」
「……空いた」
「じゃあ、病院に帰ろう。ザック先生が、気分転換にみんなでご飯食べに行こうって言ってたよ」
そう言うと、ルビーがゆっくりと顔を上げた。相変わらず元気は無いが、食欲はあるようでホッとした。ハルは先に立ち上がり、ルビーに手を差し出した。しかし、ルビーは座り込んで前を見つめたまま動こうとしない。どうしたのかとその横顔を見つめていると、ルビーの口の端からジュルリとヨダレがこぼれた。
「えっと、ルビーちゃん? そんなにお腹が空いてるなら早く──」
「ネズミだ……」
「え?」
その言葉に、ハルはルビーの視線の先を見た。そして、驚きのあまり目を見開いた。灰色の柔らかい毛並みに、少し大きな身体、捕食されると感じて怯えているそのネズミは……アルだった。
「アル……アルなの!?」
呼びかけると、アルはコクリと頷いた。
もう二度と会えないと思っていた。別れの言葉も言えなかったことを後悔していた。だけど、アルは戻ってきた。やっぱりボクらは二人で一つだ。
そう思うと嬉しさが込み上げ、緑色の瞳には涙が溜まっていく。だが、ハルの目から涙がこぼれ落ちるより先に、ルビーが動いた。
「ちょっ、ちょっと待ってよルビーちゃん! ご飯ならザック先生が食べさせてくれるから! アル、逃げて!」
よほど空腹だったのか、ルビーがアルを捕まえにかかった。ハルは止めようと声を上げるが、ルビーは足が速い上に小動物を狩ることに長けている。逃げ回るアルも簡単に捕まってしまった。両手で握り締められて動けないアルが、ガタガタと震えながら助けてとこちらに視線を送っている。ハルは慌ててルビーに駆け寄った。
すると、ルビーはハルの目の前にアルを差し出してきた。どうやら、自分に渡すために捕まえてくれたようだった。誤解されたのが嫌だったのか、ルビーは頬を膨らませている。
「ご……ごめんね。食べそうだったから、つい」
「食べないよ」
ルビーはムッとしてそっぽを向き、アルを握り締めていた手を緩めた。そして怯えたアルは、ハルの肩に飛び乗った。肩に感じる重さと温かさに、本当にアルが帰ってきたのだと実感する。
「おかえり、アル」
そう言って、ハルは笑った。そして、その嬉しそうな笑顔をルビーがジッと見つめていることに気がついて、アルも微笑んだ。
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