第199話 本心
両腕を上げて、背もたれに身体を預ける。固くなった身体をグッと伸ばしてストレッチをすると、ひとりぼっちのオフィスに椅子の軋む音が響いた。電気はほとんど消えていて、自分のデスクの周辺以外はすっかり暗くなっている。ブラインドもすべて閉じられているため外は見えないが、腕時計の針が指し示す現在時刻は二十時四十五分。それなりに暗くなっているだろう。
日野は完成したデータを保存してパソコンの電源を切った。少し時間がかかってしまったが、会議の内容はまとめ終えたので、これで安心して帰ることができる。
立ち上がり、椅子にかけていた上着を羽織ると、バッグの中に鏡やらポーチやらの私物を突っ込んだ。そしてフラフラと電気のスイッチのところまで行き、パチリと明かりを消した。
真っ暗になったオフィスの中は思っていたよりも不気味で、どこかに幽霊が浮かんでいるんじゃないかと嫌な想像が膨らんだ。日野はパタパタと小走りで出入り口へ向かい、急いでセキュリティカードをかざして扉を開けた。
「はー……怖かった」
独り言を呟きなら廊下に出ると、まだ電気がついていてホッとした。そして恐怖を誤魔化すために、今日も晩ごはんはコンビニかな……と、弁当を思い浮かべながらエレベーターまで向かっていった。
──イッカイデス。
無機質な声に見送られてビルを出る。見上げると、やわらかな星の光が暗い空を彩っていた。特に、ひときわ明るい三つの一等星はとても綺麗に見える。
この世界の夜空も綺麗だった。二十年以上生きてきてはじめてそう思えた。だけど、なにか物足りなく感じてしまったのは何故だろう。
「綺麗……だけど」
無意識に比べてしまった。もっと美しい空を知っていたから。遮る物はなにも無く、どこまでも無限に広がる鮮やかな黒に、たくさんの宝石を散りばめたような。一瞬で心を奪われてしまう、そんな星空と……比べてしまった。
「帰ろう」
日野はそう呟き、思考を止めた。思い出せば思い出すほど辛くなるだけだと自分に言い聞かせ、儚い希望を振り払うように自宅までの道のりを歩きはじめた。
そして、しばらく夜道を歩いていると、なんだか妙に人通りが多くなり、騒がしくなってきた。普段ならこんな時間にはいないはずの小さな子供もチラホラと見かけた。それに、ところどころに浴衣を着て歩いている人もいる。
「そっか。今日は夏祭りなんだ」
そう口に出した時、ちょうどすれ違った子供が、ワクワクと目を輝かせながら言った。
「ねぇ、ママ。今年も苺飴あるかなー?」
日野は一瞬息が止まったように立ち止まった。
── ねー! 早く行こうよー! グレンー!
早く苺飴を食べたいと、大人たちを急かすハルの声が耳に甦ってくる。自分の意思とは関係なくドクドクと心拍数が上がっていき、日野は足早に歩き出した。
今の自分はよほど怖い顔をしているのだろう。すれ違う人たちは、こんな祭りの夜にどうしたのかと言いたげに驚いた表情をする。しかし、日野に周りを気にしている余裕はなかった。ただ涙を堪えることで精一杯だったのだ。
それから何分くらい経っただろうか。ズカズカと乱暴に歩き続け、やっと人波を抜けた。一度立ち止まり、涙が流れてしまわないように呼吸を整える。一本外れたこの道は、先程とは正反対でほとんど人通りがなかった。
高いビルも少なくなり、空がよく見える。少し遠回りにはなってしまうが、この道から帰ろう。そう思い、日野が再び歩き出した時だった。
ヒュルルル……と背後で高い音が響き、日野は目を見開いた。振り返り、空を見上げる。すると、大きな破裂音が鳴ったと同時に、遠くの夜空に鮮やかな花火が咲いた。
「あ……あ……」
次々と咲き乱れる花火に、日野は言葉を失った。瞳に映った花火がぼやけていく。我慢していたはずの涙がボロボロとこぼれ落ち、日野はその場に崩れ落ちた。
生まれた世界に戻ってきても、そこで何日過ごしても、前より生きやすくなったとしても、グレンたちを忘れることなんてできなかった。
我儘だとわかっていても、会いたいと叫びたかった。
── どこにも行くな。俺の傍に居ろ。
泣きじゃくる日野の耳に、グレンの言葉が甦る。離れようとするたびに、危ない目に遭うたびに、彼は何度だってそう言ってくれた。何度だって抱きしめてくれたのだ。
グレンに会いたい。みんなに会いたい。タガが外れたように気持ちはどんどん強くなっていく。だけど、そう願ったところで自分にはどうすることもできなかった。別の世界へ行くなんて、そんな魔法のような力は自分には……そう思った時、なぜか公園の風景が頭に浮かんだ。
「……あの公園」
ほんの一瞬のことだった。だがハッキリと頭に浮かんだ。そこは、はじめて青い本を手にしたあの公園だった。
日野は傍に落としていたバッグを掴んで立ち上がると、無我夢中で走った。硬いアスファルトを蹴るたびにパンプスが足を傷つけて血が滲んだ。それでも止まらなかった。会いたい、ただその気持ちだけで、記憶を頼りに公園を探して走り続けた。
そして、両足が限界に近づいた頃。ようやく見つけた。
「あった」
息を切らせながら公園の中に入っていく。そしてベンチの近くに来た時、日野は力尽きてその場にへたり込んだ。
「青い本。ねぇ、どこかにいないの?」
もしかしたら……そんな希望を込めて、呼びかけた。
しかし、何も起こらなかった。シンと静まり返った公園に、日野のすすり泣く声だけが静かに響いていた。
いつか離れるかもしれないと、一日一日を大切に過ごす努力はしていたつもりだった。グレンと出会えたことも、みんなで笑い合った時間も、その一つ一つが小さな奇跡の連続だと思っていたから。だが、こんなに早く別れが来るなら、もっと好きだと言っておけばよかった。二度と会えなくなるのなら、もっと笑っておけばよかった。
心が、頭が、激しい後悔と絶望感に襲われる。青い本が現れない。それはもう戻れないということだ。どうしようもない現実が目の前に突きつけられ、ほんの小さな希望さえも打ち砕かれた。
だが、もしもあと一度だけ奇跡が起こるなら。たった一つだけ我儘を聞いてもらえるなら、私は──。
「……グレンに、会いたい」
日野は涙をこらえながら、本心を言葉に出した。
『僕、待ってたんだよ』
その時、突然頭の中に声が響いて、日野は目を見開いた。聞き覚えのある懐かしい声がこだまする。
日野は震える声で名前を呼んだ。
「アル……バート?」
『ずっと待ってたんだ。お姉ちゃんが、そう言ってくれるのを』
嬉しそうなアルバートの声が再び響いた。その瞬間、手首を掴まれ、思い切り引っ張られた。驚いた拍子に小さな悲鳴を上げて、日野は無意識にギュッと目を閉じた。
なんだか浮いているような、飛んでいるような、不思議な感覚がした。そのあと、数秒ほどで掴まれていた手首はそっと解放された。
ふんわりと甘い香りが鼻をくすぐり、恐る恐る目を開くと、モンシロチョウがヒラヒラと通り過ぎて行った。そして目の前には、青い本を抱えたアルバートが立っていた。
『おかえりなさい』
ニコニコと楽しそうな笑みを浮かべたアルバートは、日野に近づくと青い本を開いてみせた。真っ白いページに、サラサラと文字が書き込まれていく。日野は促されるまま文字を追った。
──異なる世界へ魂を移す者。その名を生きた時と引き換えに、新しい時を刻む扉が開かれる。扉を開けば最後。生まれ落ちた世界から、日野憧子という名の時の記憶はすべて失われる。
一つ一つの文字が、トクトクと鼓動を速くする。扉を開けば、グレンたちのいる世界に戻ることができる。青い本が、そう言っている。ただし、元の世界の日野憧子は生まれたことすら無かったことに……最初から存在しなかったということにされるようだ。そして、一度扉を開けば、元の世界には二度と戻れない。それだけの覚悟が必要だということだ。
日野が固唾を呑んで見つめていると、青い本は更に文字を続けた。
──それでも、会いたいか?
「会いたい」
日野は、青い本の問いかけに即答した。すると、青い本がサラサラと最後の文字を書き込んだ。
──あるべき場所へ 日野憧子
日野の名前が記されたその瞬間、青い本から眩い光が放たれ、金色に輝く円状の空間が開いた。日野の身体は徐々に光の粒になって、キラキラとその空間に吸い込まれていく。とても温かくて、心地良かった。
しかし、いくつか気がかりなことがあった。
「ねぇ、アルバート。あなたはどうなるの? 刻やローズマリー……オリバーのことも。あなたならどうなったか知ってるの?」
アルバートはずっとこのままなのか。もう二度と会えないのか。ひとりぼっちで寂しくないのか。消えていった友人たちはどうなったのか。聞きたいことは山程あったが、時間がない。日野が慌てて問いかけると、アルバートは持っていた青い本をパタンと閉じて両手で抱え直した。そして、安心させるように日野へ笑みを向けた。
しかし日野は、目の前のアルバートの姿に違和感を覚えた。アルバートの瞳は、ハロルドと同じ緑だったはずだ。なのに今は、鮮やかな金色になっていた。
『僕は、誰もが幸せになれる世界が好きだ。たとえそれが綺麗事でもね。安心して。僕は必ず見守り続ける。それに、アルバートとはまた会えるよ』
「待って! あなた一体──」
アルバートじゃない。そう感じて声を上げた時、残っていた日野の身体はすべて金色の空間に吸い込まれていった。
そして、歯車の噛み合う音が響き、チクタクと新しい時が流れはじめた。
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