第195話 光
そこは、真っ暗闇だった。右を見ても左を見ても黒一色。光もない。自身の姿さえ満足に見えなかった。だが、試しに髪に触れてみると、柔らかな白髪の感触が指に伝わった。感覚が存在するということは、生きているということだろうか。
「いや……俺は死んだ。ここは本の中か?」
刻は、まばたきをしたり視線を上に向けたりして暗闇に目を慣らそうと試みた。だが、しばらくしても辺りは黒に覆われたままだった。時が過ぎているのか、止まっているのかさえ分からない。周りには何もなく、ただ自分だけがトクトクと一定のリズムで鼓動を刻みながらそこに存在していた。
こんな状況で歩き回っても仕方がない。刻はその場に腰を下ろし、顔を伏せた。目を閉じて最初に頭に浮かんだのは、ローズマリーとルビー、そしてアイザックの姿。これまで生きてきた時間が、走馬灯のように甦った。
『貴様は生きろ、日野憧子』
そう言って、オリバーと共に本の中へ飛び込んだ。自分の名を叫ぶ愛しい女の声と、行かないでと止める小さな手を振り切った。
『愛している』
たった一言、そう言い捨てて。自分勝手にローズマリーとルビーの元を去った。その決断が良かったのか悪かったのか、今でも答えは出ない。考えれば考えるほど、これまでに感じたことのない大きな寂しさが胸を締めつけた。
自分は本当に彼女たちと一緒にいてもいいのか……そんな疑問を心の片隅に抱えたまま、ローズマリーやルビーと共に旅をしていた。
あの世界で殺人鬼として生き続けた自分が、あの世界で幸せになる。それは、決してできないことではなかった。自分を愛してくれる女がいて、慕ってくれる娘のような子供がいて、育ててくれた兄がいる。そして、生きていく途中で出会った友もいた。破壊衝動を抑えきれず、血にまみれた殺人鬼──そんな自分に彼女たちは笑顔を向けてくれた。
ここでなら幸せになれる。殺人鬼ではなく人として、普通に生きることができるかもしれない。そんな期待が頭を過った。だが、赤く染まった両手からは、どんなに洗っても血の匂いが取れることはなかった。大切な人が増えるほど、小さな幸せに気づけば気づくほど、これまで犯してきた罪の重さをより感じることになった。
大勢の人間の幸せを奪っておきながら、自分だけが幸せを手に入れ、笑って生きていくことなどできないと思った。
残り少ない命が尽きるまで、ローズマリーとルビーをこの手で守りたいという気持ちもあった。だが、この汚れた両手では心から二人を抱きしめることができない。自身の中に芽生えた恋心に気づいたあとも、頭では人と殺人鬼の狭間で葛藤していた。
結果的には、あの世界から自身の存在を消すことで自ら身を引いた。世話焼きのアイザックやグレンが傍にいるため、ルビーのことはあまり心配していない。ローズマリーも、時が経てば悲しみや記憶も薄れ、新しい男と幸せを紡いでいくだろう。殺人鬼ではなく、普通の男と。……そうであってほしい。
顔を伏せたまま、刻は静かに二人の幸せを願った。
ジッとその場にうずくまって、どれだけの時間が経っただろうか。音もなく、光もなく、ただ黒だけが無限に広がる空間で、自身の心臓が小さな鼓動を刻んでいる。
考えることも尽きた。やることもない。この孤独が犯した罪の報いだというのなら、きっと消えることも許されず永遠にこのままなのだろう。
独り言を呟く気もなれず、ため息を吐き捨てる気も起きず、刻はただ顔を伏せて座っていた。
──刻。
会いたい。抑えつけているその気持ちが幻聴を聞かせたのだろうか。微かにローズマリーの声が聞こえた気がした。
ローズマリーがこんな場所にいるはずがない。そんなことは分かっている。だが、幻聴でもなんでもいい。もう二度と会えないのなら、せめて声だけでも……。
刻は顔を伏せたまま、自身の名を呼ぶ声に耳を澄ませた。
──刻。
また聞こえた。愛しい人の声は、まるで迷子を探すかのように自分の名前を何度も何度も呼んでいた。
そしてその声はだんだんとこちらへ近づいてきた。呼ばれるたびに声が鮮明になっていく。まるで、本当にローズマリーが近くにいるかのようだった。
ついに耳までおかしくなったか……心の中でそう呟いた時だった。
「刻!」
背後からローズマリーの声が聞こえた。そんなはずはないと思いながらも、刻は顔を上げて振り返った。すると目の前には、涙を流しながら微笑むローズマリーが立っていた。黒一色の空間にも関わらず、何故か彼女の姿だけがハッキリと瞳に映った。
目を見開き、言葉も出ないまま、刻は立ち上がった。するとローズマリーが勢いよく胸に飛び込んできて、刻は反射的にその柔らかな身体を抱き留めた。
「ローズマリー……何故ここに? どうやって来た?!」
「青い本が……連れてきてくれたの。あの世界の私は、おそらく死んでしまったわ。でも、ルビーは無事よ」
「何故だ……何故生きなかった? 俺が傍にいなくても、いくらでも幸せに──」
「なれないわ。私は刻の傍にいる。刻の隣で幸せになりたい。ずっとずっと前からそう決めていたの!」
刻の言葉は、ローズマリーの言葉に遮られた。ジッとこちらを見上げる栗色の瞳が、意思の強さを示している。
しかし、それでも刻の気持ちは揺れていた。ローズマリーには、生きて幸せになって欲しかったのだ。普通の人間と、普通の幸せを感じながら、普通の人生を歩んで欲しかった。
頭ではそう考えているのに、心は再び会えた喜びで満たされ、身体はローズマリーを離そうとしなかった。
刻が答えに迷っていると、腕の中のローズマリーが、柔らかく微笑んだ。
「犯した罪は消えないわ。だから、償いながら少しずつ前に進みましょう。……刻。これからも私と一緒にいてくれますか?」
その言葉に刻は再び目を見開き、ローズマリーを強く抱きしめた。こんな場所でもまだ、彼女は自分のことを愛してくれている。長い間、殺人鬼が人を愛してはいけないと心を誤魔化し続けてきた。だが、もうローズマリーへの愛を止めることができなかった。
「馬鹿な女だ」
見つめ合い、二人はそっと唇を重ねた。
「ローズマリー……愛している」
「私も、刻を愛してるわ」
どんなに暗く先の見えない日々が続こうとも、二人寄り添いながら歩んでいこう。お互いがそう思い、気持ちを伝え合った。
するとその瞬間、微かに足元が光り、刻とローズマリーは視線を落とした。目を凝らさなければ分からないほどのか弱い光だったが、それが馬の蹄の形をしていると気づくのにそれほど時間はかからなかった。
自分たちの足元から馬の足跡が点々と伸びていく。まるで、こっちだよと誘っているようだった。
「行きましょう。進めば必ず出口は見つかるわ」
「そうだな」
暗い闇の中、刻とローズマリーはどちらからともなく手を繋いだ。そして、お互いの幸せと、ルビーの未来を祈りながら、蹄の跡を辿ってゆっくりと歩きはじめた。
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