第192話 愛しい人
──オリビア・テイラーは、この世界で幸せを掴むことはできない。
日野の頭の中に、青い本の言葉が甦った。伸ばした手がオリバーを掠める。手のひらに、ピチャリと冷たいものが当たった。日野はオリバーを追いかけながら手のひらを確認する。そこには、オリバーの血がついていた。動くたびに、彼の身体は破壊と再生を繰り返しているのだ。
──もうじき破壊の力に呑まれ、死を迎える。
それがどれだけ苦しく辛いものなのか、今のオリバーの表情から見てとれた。彼は私から逃げているはずなのに、まるで獲物を探すようにキョロキョロと辺りを見回している。そしてその顔は痛みと動揺で歪んでいた。
彼の身体が完全に破壊されるまで追い回し続けるなんて、そんなこと出来やしない。新しい世界で幸せになれる可能性があるなら、今はそれに賭けるしか……彼を幸せにする方法はない。
「オリバー、もう鬼ごっこはおしまいだよ」
日野はそう言うと、足元が割れるほどの強い力で地面を蹴り、オリバーとの距離を詰めた。男性にしては華奢な腕を掴み取り、自身の胸に引き寄せる。
「ごめんなさい。少しじっとしてて」
「離せ! はなせ、ハナセ! ハナ……グアアアアア」
耳元に熱い息がかかる。ギュッと抱きしめた日野の腕の中で、オリバーはゼェゼェと苦しそうに呼吸しようとしていた。
そして、日野の背後、オリバーの目の前に、青い本が大きな円状の空間を開いた。
「ヤだ……ひとりはヤダ。ヤダよ……なんでみんな、オレをダメだって言うの? オレはオレとして生きちゃいけないの? なんで誰もオレを……」
そう言いながら、オリバーは日野の腕の中で小さな子供のようにポロポロと涙をこぼした。ヒュウヒュウと音を立てて、オリバーは日野と共に黒い空間に引き込まれていく。
その風の音に混ざって、突然グレンの怒号が響いた。
「お前、なにやってんだ!」
日野はビクリと肩を揺らした。ハッとして声のした方を見やると、グレンが今まで見せたことのない剣幕で立っていた。
「オリバーと一緒に取り込まれるつもりか!?」
「オネエサンと……? ハッ、それもイイかもね!」
「逃げろ! オリバーから手を離せ!」
眉間に深い皺を寄せ、グレンは身体を引きずりながら近づいてくる。しかし日野の背には、すぐそこに黒い空間が迫っていた。
「ごめんなさい、グレン。みんなが生き残って、オリバーが幸せになるにはこうするしか……」
「だからって自分を犠牲にするのか!? 俺から離れるなって……お前は何度言われたら──!?」
叫んだグレンの口から、勢いよく血が吐き出された。グレンはフラフラとその場に膝をつく。駆け寄ったハルに支えられ、グレンは雪の上に倒れ込んだ。
「グレン!」
日野は咄嗟にその名を叫んだ。本当はすべて投げ出して駆け寄りたかった。でも、できなかった。みんなが生き残り、オリバーが幸せになるには、こうするしかなかった。私が一緒に本の中へ……そうすれば、この世界の人はもう誰も死なずに済む。グレンの傍にいたかった。みんなから離れたくなかった。だけど、守るためには他に選択肢が無かったのだ。
「ごめ……グレン……グレン、ごめんなさ……」
黒い空間に向かってズルズルと身体を引き摺られながら、日野は涙を堪えていた。その時、
「貴様は生きろ、日野憧子」
日野は、強い力でオリバーから引き剥がされた。背中を押され、地面に倒れ込んだ時、耳を劈くような悲鳴が聞こえた。ローズマリーと、ルビーの声だ。
目の前で、刻と、羽交い締めにされたオリバーが黒い空間に引き込まれていく。日野と刻が入れ替わったことで、オリバーは再び暴れていた。
「イヤだ! ハナセ! オレは……オレは!」
必死に叫ぶオリバーの身体は、もう半分以上が黒い空間に引き込まれていた。
「やめてよ……やめてよ。どうしてオレはいつも一人なの? 傍にいてよ、ローズマリー。一緒に行こうよ、オネエサン。ダレか……ダレかオレを……愛、して……」
ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、オリバーの身体は刻と共に黒い空間に消えていった。そして、ヒュウヒュウと音を立てているその空間を本が閉じようとした時、チリン……と、辺りに鈴の音が響いた。チリンチリンと鳴り響く鈴の音は、日野の耳にも聞こえた。そして、音は徐々に日野に近づいてきて、耳元で止まった。
『ありがとう』
聞いたことのない声が、そう言った。そして、鈴の音は今まさに閉じられようとしている空間に向かって消えていった。鈴の音と共に、何か黒い生き物のようなものが飛び込んでいったように見えたのは、気のせいだろうか。
鈴の音が消えたと同時に、パタンと音を立てて黒い空間は閉じられた。そして、力を失くしたように青い本は雪の中に落ちた。そこに、ローズマリーとルビーが駆け寄る。
「なんで!? 刻は? 刻はどうしたの?」
「刻……どこにいるの!?」
ローズマリーとルビーは泣きながら本に訴えていた。日野は雪の上にしゃがみ込んだまま、声にならない声を出した。
私のせいで、刻が消えた。目の前で泣きじゃくる二人の姿に、日野の呼吸が浅くなっていく。
「やっと好きになってもらえたのに……やっと両想いになれたのに! どうしてよ……どうして私の大切な人は、みんな私の前からいなくなるの!? 刻を返して! 刻に会わせてよ!」
ローズマリーの叫び声が、星の輝く夜に響いた。すると、青い本が眩い光を放った。雪の上で、ゆっくりと表紙が開き、パラパラとページがめくれていく。
まだ真っ白な新しいページが開かれ、そこにサラサラと文字が浮かび上がった。
──愛する人の元へ ローズマリー・コールマン
「文字が……読める……愛する人の元へ」
浮かび上がったその文字をローズマリーが読み上げた。その瞬間、青い本が再び金色の光を放つ。あまりの眩しさにローズマリーが目を閉じようとした時、突然、開かれたページから無数の光の槍が飛び出した。
──ドスッ
「……あ」
光の槍は、ローズマリーの身体を突き刺した。血を流し、グラリと力なく傾いたローズマリーの身体を、ルビーが支えた。
「ローズマリー! なんで!? なんでローズマリーが……しっかりしてよ! 死んじゃやだ! ローズマリー!」
「ル、ビー……」
「喋らないで、血が流れちゃう」
「ルビー……生きなさい」
そう言って、ローズマリーは花のように美しい笑みを浮かべた。そして、大きな目が、長いまつげを揺らしながらゆっくりと閉じた。
「あ……ああ……わああああああああああ!」
夜の街に、幼い少女の泣き叫ぶ声が響いた。天までも届くようなその叫び声は、大粒の涙と共に雪に溶けていった。
そして、青い本は更に光を強めた。眩い光は、刻の連れていた黒い馬と、ネズミのアルを包み込んだ。二匹の身体が、光の粒となって消えていく。
日野は、浅い呼吸を繰り返しながら声を振り絞った。
「やめて……どうして……こんな筈じゃ……」
すると、青い本はふわふわと日野の元へ飛んでいった。ローズマリーの名が記されたページを一枚めくり、新しいページを出す。そこに、サラサラと文字が書き込まれた。
──鬼塚 刻 1万1千632名。
「……え?」
日野はその名前と数を見て再び言葉を失った。それは、これまでに奪った命の数。あの時見たオリバーの数を優に超えていた。
「そんな……それじゃあ……」
──鬼塚刻は、既に破壊の力に呑まれていた。だが、ローズマリーとの出会いが彼の死期を遅らせた。
書き込まれていく文字を見つめながら、日野は涙を流し続けた。そんな日野を気遣うようにふわりと揺れると、青い本は文字を続けた。
──鬼塚刻が次の世界で幸せを掴むには、ローズマリーが必要不可欠。彼女は共に連れて行く。
「……私のせいだ。私のせいで二人が……あ……ああ……」
守りたいという自分勝手な感情で、結果的にみんなを離れ離れにしてしまった。ネズミのアルも、黒い馬も、もういない。泣き叫ぶルビーの声が耳に響き続けている。
自分の選択は、自分の行動は正しかったのか。どうすれば、この世界で誰もが幸せになれたのか。
日野の頭の中を後悔が埋め尽くそうとしていた。その時、グレンの声が日野を怒鳴りつけた。
「行くな!」
「……え?」
グレンの言葉に、日野は自身の両手を見た。長く鋭い爪先が、光の粒になって消えはじめていた。日野は驚いて、グレンの声がした方へ目を向けた。
「グレン……私……」
「行くな……」
「ショウちゃん!」
ハルに支えられ、グレンが身体を引きずりながら近づいてきた。目の前まで来ると、ゆっくりと消えていく日野の身体を、グレンが強く抱きしめた。滲んだグレンの血がポタリポタリと滴り、荒く熱い息が日野の耳にかかった。しかし、どれだけ強く抱きしめても、グレンの腕の中で、日野の身体は徐々に消えていく。
日野はそっと身体を離し、グレンを見つめた。そして二人の唇が、どちらからともなく重なった。
「グレン、ハル、ありがとう」
「ショウちゃん……」
「行くなって言ってんだろ。世界がなんだ? 力がなんだ? 俺にはそんなの関係ない。お前が必要だ……傍にいろ。どこにも行くな」
優しく囁くようなグレンの言葉に、日野は涙を止めることが出来なかった。しかし、身体の下半分はもう光の粒となって消えていた。
元の世界へ帰るんだ。何故かそう感じた。諦めにも似た感情が日野の中に芽生えた。いつかこうなると思っていた。別の世界から来た人間が、そのまま平穏に暮らしていけるはずがない。これまでグレンたちとたくさんの幸せな思い出を作ってこれたことは、奇跡だったのだ。だが、もう帰らなければならない。きっと、こうなる運命だった。
頭でそう言い聞かせながら、心がそれを否定した。
涙が、止まらない。後悔と、寂しさと、愛しさが胸を締め付ける。日野は震える唇で、声を振り絞った。
「グレン、ハル……愛してる」
その言葉と共に、日野のすべてが消えていく。
「やめろ。行くな……ショウコ!」
グレンの叫び声と共に、無数の光の粒がキラキラと夜空に舞い上がり、消えていった。
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