百八十九 黒い瞳
骨の折れた音が聞こえた。しかし、刻とオリバーは戦うのをやめない。痛みを感じても、身体はすぐに治ってしまう。どちらかの気力が尽きるまで二人は戦い続けるつもりらしい。
すると、屋根の上、大きな道を挟んで、刻とオリバーは互いに距離を取った。そこへ日野が駆けつける。日野は地面を蹴り、刻のいる屋根まで飛び上がった。刻はゼェゼェと肩を揺らしている。向かいの屋根にいるオリバーを窺うと、彼も同じように呼吸を整えているようだった。
「刻、遅くなってごめんなさい」
「何をしていた?」
短くそう尋ねてきた刻に、日野は両手で青い本を開いて見せた。先程やりとりしたページだ。
「オリバーの動きを止めることが出来れば、青い本が助けてくれる。何とかなるんだよ。この戦いを、終わらせることが出来る」
「……次の世界へ、か。やり直すには、いい機会かもしれないな」
「え?」
刻は、日野が見せたページを見つめて、少し寂しそうな顔をした。その表情に疑問を抱きつつも、日野は自身の考えを伝えた。
「オリバーを拘束しよう。あとは、青い本が何とかしてくれる……はず」
「その案には乗ってやる。だが見ろ。奴はもう正気を保てていない。心が破壊の力に喰われている」
そう言われ、日野は再びオリバーを見つめた。瞳は闇のような黒に染まり、どこを見つめているのかも分からない。ゼェゼェと肩を揺らしながらも、口角は楽しそうに上がっている。冷たい風に乗って、不気味な笑い声が耳に届いた。
「動きを止めるだけでも一苦労だぞ」
「大丈夫、私が止めてみせる。刻は少し手伝ってくれたらいいの」
「出来るものならやってみろ」
「ありがとう」
刻が小さなため息をついて頷いた。その時、日野の手元から青い本が浮き上がった。パラパラとページを風になびかせて、まるで生きているかのように浮遊している。
日野と刻は目を見合わせると、屋根を蹴り上げ、オリバーの元へと飛んだ。
「アハ、アハハハハハ! 来たきた! ノワール、やっとオネエサンが戻ってきたよ! やっぱり吹き飛ばすくらいじゃ死なないね! ククク……アハハ……次は溶けちゃうくらいグチャグチャにしてあげようか?」
不気味に笑いながら、飛び込んでおいでとばかりにオリバーは両手を広げて日野を待ち構えている。
すると、オリバーの瞳の端に赤い何かがチラリと映った。屋根の上から見ると粒のように小さな身体。ギョロリと眼球だけを動かして追ってみると、それは赤い髪の少女、ルビーだった。そしてオリバーは、ルビーの向かった先にローズマリーの姿を見つけた。
「ローズマリー……ミィつけた」
オリバーはニヤリと口角を上げて屋根を降りた。先程までオリバーがいた場所に、入れ違って日野と刻が着地する。刻はチッと舌打ちをして、即座にオリバーを追った。
屋根の上には、日野だけが一人取り残された。すると日野は、小さな声で本に尋ねた。
「ねぇ、青い本。私は、破壊の力でどこまで強くなれる?」
──どこまでも。望がままに。
「それなら、力を最大限に出せるよう協力して」
日野がそう言うと、青い本が光を放った。日野が目を閉じると、小さな身体は光に包まれていく。そして、その明るさがゆっくりと消えた時、日野は再び目を開いた。
金色に美しく輝いていた瞳は、オリバーと同じ闇色に染まっていた。身体が上手くコントロールできない。何かを破壊しようと全身が震えている。頭の中には、誰かの苦しむ声が這い回っていた。その声は大きく、ねっとりと心にこびりついていく。
これまでに感じたことのない強い力が身体の底から湧き上がってくるようだった。壊したい、殺したい……その感情を押し殺し、日野の頬に冷や汗が伝った。
そんな日野を見て、青い本は気掛かりだとでも言いたげに宙をクルクルと回っていた。
「……オリバーを捕らえるだけだよ」
安心させようとそう伝えてはみたが、青い本はクルクルと回り続けている。
「私は破壊しない、絶対に心は喰われない。守りたいものがあるから。だから心配しないで。……後のことは、頼んだよ」
そう言うと、日野は今までに見せたことのないような穏やかな笑みを浮かべた。そして、すうっと冷たい空気を吸い込むと、残像すら見えないほどの速さで、オリバーの元へと駆けて行った。