百八十八 不可能と可能
ガラガラとレンガの壁が崩れた。瓦礫の奥で街の人間が震えている。どうやら私はオリバーに吹き飛ばされて、そのまま建物に突っ込んだらしい。頭から流れた血を拭い取ると、日野は立ち上がった。
「怖い思いさせて、ごめんなさい」
寄り添って震えている家族と思われる人間たちにそう伝えて、日野は瓦礫の隙間から外に出た。
遠くではまだ刻とオリバーが戦っている。
「早くなんとかしなくちゃ……でもどうすれば?」
そんなことを呟いている間にも、街は破壊されていた。
「とにかく今はオリバーの動きを止めないと」
「ショウコ!」
走り出そうとした日野を、幼い声が止めた。
ルビーの声だ。わかった瞬間、日野は勢いよく声のした方へ振り返った。見ると、スカートを揺らしながらルビーが駆け寄ってくる。だが何故……一人なのか?
血の匂いが立ち込めている街の中では、鼻が役に立たない。目を凝らしてみたが、ルビーの傍には誰もいないようだった。日野は、勢いそのまま胸に飛び込んできたルビーを抱きしめた。
「捕まえた!」
「ルビー!? どうしたの? 一人になったら危ないじゃない。ザック先生のところにいたんじゃないの? ローズマリーは?」
「とにかく来て!」
バッと身体を離したルビーが、日野の手を引いて走り出した。意図がわからず困惑したまま、日野は小さな手に引かれる方へ走り出した。
そして、少し場所を移動したところで暗がりからふんわりと二人分の影が浮かんできたのが見えた。片方の人間はおぼつかない足取りだ。走りながら再び目を凝らすと、暗がりから出てきた二人を星明かりが照らし出した。
「グレン!? ローズマリー!」
日野は思わず二人の名前を叫んだ。グレンの手には、青い本が握られている。ルビーを連れて、二人に駆け寄った。すると、ゴツンという音が小さく響き、目の前で起きた出来事に日野は目を丸くした。グレンがルビーの頭を小突いたのだ。
「痛ああああい!」
「うるせぇ! 離れるなって言っただろうが!」
「ちょっと、怒るのは良いけどぶつことないじゃない!」
「そうだそうだ! グレンの意地悪! せっかくショウコを連れてきたんだから感謝して! ありがとうは?」
「……ありがとう。ただ、もう危ないことはするんじゃない。離れるな。わかったか?」
「はぁい!」
ローズマリーとルビーの勢いに押されて、グレンはため息混じりに離れないよう念を押した。そして、呆気に取られている日野に青い本を手渡した。
「おじさんが見つけて、俺たちが拾ってきた。青い本ならオリバーを何とかできるかもしれない」
やれるか? そう伺うように、グレンがジッと見つめてきた。日野はコクリと頷くと、青い本を開く。
しかし、分厚い本の中から今すぐに解決策を見つけ出すのは困難だった。破壊の力の持ち主であれば青い本の文字を読める。とはいえ、量が多すぎる。
どうすればいい? 自分自身に問うように日野は目を閉じた。そしてハッと再び目を開けて、本に声をかけてみた。
「青い本、私の声はあなたに届いてる?」
オリバーの時だって、ニナの時だって、青い本は声に反応していた。聞こえているのだ、私たちの声が。それなら、今も届くはず。そう信じて、日野は本を見つめた。
すると、開かれていた本のページがふわりと金色の光を帯びた。聞こえているよ、そう答えるように。
青い本を見つめ、日野は静かに言葉を続ける。
「お願い、教えて。オリバーを止める方法はない?」
日野が問いかけると、本が一人でにパラパラとめくれ、真っ白なページが開かれた。再びふわりと金色の光を帯びる。そして、何も書かれていないそのページに、サラサラと文字が浮かび上がった。
──不可能。
たった一言。目の前に現れた文字に日野は言葉を失った。
どうして不可能だと言い切れるのだ。私や刻を別世界へと連れ出すほどの力を持っているのに、どうしてオリバーは助けてあげられないのだ。
その疑問に答えるように、再び文字が浮かび上がった。
──オリビア・テイラー 二百八十八名。
「なに……? この数字」
──これまでに奪った命の数。オリビア・テイラーは、この世界で幸せを掴むことはできない。もうじき破壊の力に呑まれ、死を迎える。
「そんな……どうして。なんとか出来ないの? この世界じゃ幸せになれないなら、別の世界は? 私や刻みたいに別の世界に行けば何とかなるんじゃない?」
──可能。しかし、次の世界で必ずしも幸せになれるとは限らない。
「それでもいい。辛い記憶の残ったこの世界で苦しみ続けるよりずっとマシだよ。お願い……どんな世界でもいいから、オリバーを幸せにしてあげて」
日野がそう言うと、青い本は眩い光を放った。そして、オリバーを救う条件として、オリバーの動きを止めることを日野へ命じた。
──オリビア・テイラー を つかまえて
本に記された文字を読み、日野はコクリと頷いた。本を閉じ、グレンたちを見つめる。
オリバーより力が弱くても、足が遅くても、必ず私が止めてみせる。辛い人生を送ってきて、他人を傷付けて、自分も傷付けて、苦しみしかないまま死んでいくなんて悲しすぎる。時折見せるオリバーの寂しそうな瞳は、そんな結末なんて望んじゃいない。
勝手な想像だとわかっている。だけどそれでも、黙って見過ごすことだけはできなかった。何とかしてあげたい。ほんの少しでもいい。幸せになれる場所があるなら、そこに賭けてみよう。
「行ってくる。終わらせるよ」
そう言うと、日野は地面を蹴って再びオリバーのいる方へ向かっていった。
しかし、日野は気付いていなかった。本を閉じる瞬間、新たな文字が浮かび上がっていたことに。誰に見られることなく閉じられたその文字は、
──鬼塚 刻 一万一千六百三十二名。