百八十四 過程
真っ白な雪の上に赤い足跡が残されていく。オリバーは苦痛に顔を歪めながら、刻にナイフを振りかざした。しかし、刃先は頬を掠めたものの致命傷には至らない。そんな傷などお構いなしに刻は突っ込んでくる。目の前まで迫った拳からすんでのところで身を躱すと、オリバーはガクンと体勢を崩した。
「……ぐっ」
痛みのせいで無意識に声が漏れる。足は既に血だらけだった。自分を捕らえようと伸びてきた刻の手を振り払い、雪の上を転がって距離を取った。よく見ると、刻の足元にも血溜まりが出来ていた。オリバーは目の前の状況を整理しようと息を整える。
何故だ……一体何が起きている? 破壊の力を持つ者は通常の人間の何倍もの治癒力がある。それは刻という殺人鬼に目をつけて以来、破壊の力について調べ続けたことで知った事実だ。怪我をしても瞬時に治り、使った体力は常に回復していく。疲れることもなければ、死ぬこともない。力を持った身体はそういう仕組みだったはずだ。力の使い過ぎで自身の身体が破壊されていくなんて……そんなことがあり得るのか?
たらりと頬を撫でた冷や汗が雪の上に落ちて消えていく。ちょっと休憩……そう伝えたいところだが、目の前の男は日野憧子のようには甘くない。何か隙をつける材料がないかと刻を見つめる。すると、いつも彼のベルトにつけられている小さなバッグが裂け、そこに入っていたはずの青い本が無くなっていることに気がついた。
「オマエ、本をどこに落としたの?」
震える声でオリバーが尋ねた。刻もハッとしたようにバッグに触れる。青い本が無い。動き回っているうちに爪やナイフが当たり、裂けた部分から滑り落ちたようだ。
刻の頭の中に、目を輝かせて本を受け取り、嬉しそうに去っていく少年の後ろ姿がフラッシュバックする。渡してはいけなかった。そんな後悔の念と、誰かが拾ってしまうのではないかという不安が刻の心を満たしていった。
刻の意識が自分から逸れた。チャンスだとばかりにオリバーはナイフを構えた。ジリジリと足元の雪を踏みつけ、オリバーは刻に飛びかかろうとした。しかしその時、高音で透き通った声が、暗く静かな街に響き渡った。
「オリバー!」
オリバーは声のする方へ目を向けた。そこには、ローズマリーの姿だけがあった。
「なぁに、ローズマリー? オレに恋でもした?」
ワナだ。心配性のオネエサンがこんなにも分かり易くローズマリーを一人にするはずがない。瞬時にそんな考えが浮かんだが、刻を見ると驚き目を見開いている。
ワナだとしても、刻はそれを知らない。それなら、利用する価値はありそうだ。オリバーは標的をローズマリーへ変更すると、一っ飛びで距離を詰め、震える彼女を抱きしめた。
ローズマリーが小さな悲鳴を上げる。気が強いくせに、危険が迫るとそうやって怯える姿も可愛らしい。破壊の力を持つ白髪の殺人鬼。自分と同じように好奇の目にさらされて生きてきた男を、彼女は心から愛した。彼女なら、こんなオレのことも愛してくれるはず……。
「怖がらないで。キミには、この世界を破壊し尽くすまでオレと一緒にいてもらう。オレも破壊の力を持つ殺人鬼だ。刻と何も変わらない。だけどオレはアイツよりキミを愛してあげられる。だからキミもオレを見てよ。オレを愛してよ、ローズマリー」
そう伝えた時、物陰に潜んでいた日野が飛び出してきた。背後からは刻の殺気が近づいてくる。
「ほうら、来た。バレバレだよ。ワナはもっと上手く張らなきゃ」
日野の蹴りと刻の拳が同時にオリバーへ直撃──したかと思ったが、オリバーはローズマリーを抱えてその場を飛び退いた。
「言ったでしょ? 本気のオレは速いって」
「グレン!」
──ガウン
「…………え?」
日野がグレンの名を叫んだ瞬間、辺りに銃声が響いた。小さな穴の空いたオリバーの太ももから、血が流れ落ちる。
──ガウン、ガウンガウン
間髪入れずに次の弾丸が太ももやふくらはぎに命中し、激痛のために立っていられなくなったオリバーはローズマリーを投げ出してその場に倒れ込んだ。
ビクビクと痙攣するオリバーの足は動かない。立ち上がれなくなったオリバーの元へ、日野が駆け寄った。
「意識が飛ぶくらい苦しいけど、頑張って」
「やめろ……やめろ!」
抵抗してきた細い腕を掴むと、日野は注射器の針を刺し、中の薬を全てオリバーの体内へと入れていった。
「ぐあああああああああああ!」
オリバーは両手で頭を抱えてのたうち回っている。
「良かった……一時的だけど、これでオリバーの力を抑えられる。ごめんなさい。でも、もう少しの辛抱だから」
日野は言いながら、呻き続けるオリバーの身体を抑えようとした。その時、オリバーの身体中で血管が浮き上がりはじめた。ボコボコと皮膚上に現れた血管はミミズのようにオリバーの全身を這い回る。
「なに……これ? どうして? 私と同じ体質で同じ薬を使ったなら、同じ反応が出るはずなのに!」
「あああ……ああ……あああああ!」
「なんで気絶しないの? なんで!?」
オリバーは苦痛に暴れるままで、気を失う様子はない。見たこともない症状に慌てる日野の元へ、グレンが駆け寄ってきた。
「おい、どうした!?」
「グレン! オリバーが……オリバーが苦しんだままなの! 破壊の力は薬で抑えられるはずなんじゃないの? 私が薬を使った時はこんなことにはならなかったんでしょ? どうしよう……どうしたらいいの? オリバー、オリバー!」
「クソッ、おじさんさえ無事なら……何か手はないのか?」
「無いな」
低く響いた否定の声。日野たちの傍で、刻がローズマリーを抱えたままジッとオリバーを見つめて立っていた。
「推測でしかないが、身体に合わなかったと考えるのが一番納得できる。その薬は、俺や憧子の身体に合わせて作られた。本の力で別世界へ来たことで破壊の力を得た俺たちに合わせてな。だが、そいつは違う。この世界で生まれ育ち、この世界で無理矢理破壊の力を手に入れた。過程が違うのだから、その後の体質が俺たちと違っていても不思議ではない。そして、その薬の詳細を知っているのはアイザックだけだ」
「おじさんが目を覚まさないと対処出来ないってことか……」
「そういうことだ」
刻とグレンの会話を聞いて、日野から血の気が引いていく。
助けたかった。ただ止めようとしただけなのに、薬の副作用でこんなことになるとは思っていなかった。何もかも考えが甘かったのだ。助けたかったはずの相手は、今も目の前で悶え苦しんでいる。オリバーの瞳の色は金色と深紫色の間を行ったり来たりしながら、遂には色を失った。
「あ……あ……そんな……そんなことって……」
殺してしまった。自分のせいで、オリバーが死んでしまった。私たち破壊の力を持つ人間は、死ぬことが出来ない身体のはずだった。だが少し過程が違うというだけで、こうもあっけなく死に至ってしまうのだろうか。青い本は、一体何のためにこんな力を私たちに与えたのだろうか。そう思い、青い本が頭の中に浮かんだ時、日野はハッとして立ち上がった。ローズマリーを抱えたまま去っていこうとする刻の背中に叫ぶ。
「そうだ、青い本は!? 青い本ならなんとか出来る? 刻が持ってるんでしょ? お願い。少しだけ貸して──」
「失くした」
言われて、日野は刻の腰につけてある小さなバッグを見た。皮で作られた頑丈そうなバッグは何かの衝撃で引き裂かれ、その中は空になっていた。
「そんな……」
「俺はアイザックを連れて先に病院へ向かう。オリバーの墓を建てたければ貴様らだけでやれ」
絶望し青ざめる日野を置いて、刻は去っていく。己の無力さに、日野は呆然と立ち尽くした。
そんな日野を見兼ねて、グレンは自身のコートを脱ぐと、オリバーの遺体にそれをかけた。そして遺体に背を向けると、日野の肩に手を添えて寄り添うように支えた。
「……せめて墓は作ってやろう。俺たちにできることは、もうそれだけだ」
気遣うようなグレンの声音に、日野はコクリと力無く頷いた。すると、そんな二人の背後で、虚ろな瞳がギョロリと動いた。
ズズズ……ズズズズ……
周囲の雪を掻きながら、オリバーの身体が動きはじめた。そして、立ち上がったオリバーの長く鋭い爪が、背後からグレンを引き裂いた。
──ザシュッ
不快な音と共に、引き裂かれた背中から血が噴き出していく。
「ぐあああっ!?」
「グレン!?」
痛みに声を上げ、グレンがその場に膝をついた。驚いた日野もグレンを支えるために膝をつく。ドクドクと脈打つ傷口を手で押さえたが、指の間から止めどなく漏れる血は止まりそうにない。
「フフフ……アハハ……イヒヒヒヒヒ……」
静かな街の中……不気味に笑う声に、二人はゆっくりと振り返った。