百八十二 時間稼ぎ
日野が冷たい地面に降り立つと、立ち上がったオリバーが口元の血を拭っていた。刻に殴られた傷はもうない。
「ヒドイことするなぁ……こんなに可愛い女の子を殴るなんて野蛮だよ。そう思うでしょ、オネエサン?」
乱れた髪を整えながら、オリバーはケラケラと笑っている。
「野蛮なのはあなたのほうだよ」
沸々と湧き上がる怒りを堪えながら、日野はオリバーを見つめた。この男は、ザック先生を傷つけ、ハルやローズマリーの心を抉り取った。グレンや刻も、なるべく表に出すまいとしていたようだが、彼らも泣き叫びたいほど辛いはずだ。
あんなにも悲しい顔をさせておいて、オリバーはなんの罪悪感もないというように笑っている。オリバーを止められなかった、ザック先生を守れなかった、その悔しさに涙が込み上げた。そして、目の前のオリバーの姿が涙で少し霞んだ時、突然距離を詰めてきたオリバーに日野は正面からギュッと抱きしめられた。腰に回された手にガッチリと身体を固定され、動けない。
「せっかくオレとお揃いなのに、泣いたらダメじゃない」
オリバーの指が日野の涙を拭った。霞んでいた視界が晴れ、二人の金色の瞳が見つめ合う。
「やめて……離して!」
「オネエサンがオレの女になるなら、離してあげてもいいよ。ローズマリーと同じくらい大切にしてあげる」
「ふざけないで! あなたの女になるつもりはないし、ローズマリーにも手を出させないから!」
「……少し、気が強くなった? 虐め甲斐が出てきたね……だんだんオレ好みになってきたよ。そんなに嫌ならオレの腕から抜け出して、オレを殺してみなよ。相手してあげる」
そう言うと、オリバーは日野の前髪をすくい上げ、額に軽く口付けた。しかし、唇が離れた時、余裕のあったその表情は酷い痛みに歪んだ。
──ザシュッ
布ごと肉を引き裂く音が聞こえ、腹部から溢れた生温かい血液がドレスの中を伝い、太ももを滑り落ちていく。内臓を抉られたような激痛に、オリバーは無意識に日野を抱きしめていた腕を弛めた。そして、
「──がはっ!?」
オリバーの身体は、雪のまとわりついた小さなブーツに蹴り上げられた。離れた日野の手から、ダラダラと赤い血が滴っている。
「ごめんなさい……こうするしかなかったの」
そう言った日野の手は、ガタガタと震えていた。
布を、肉を、引き裂く音と感触が心地良かった。また人間としての心を失ってしまう。ただ破壊するだけの化け物になってしまう。その恐怖に怯えていた。
日野が震える手を押さえている間に、オリバーの傷は瞬く間に回復していく。
「来なよ、オネエサン。時間稼ぎたいんでしょ? まあ、医者のオニイサンは止血したところで手遅れだと思うけど。それとも、オネエサンが震えてる間にアイツらみんな殺しちゃっていいのかな?」
怯える日野を横目に、オリバーがグレンたちの方へ向かおうとした。その時、日野は自らの頬を両手でバチンと挟むように叩き、オリバーの前に立ち塞がった。
「行かせない」
「そうこなくっちゃ!」
ヒュウと口笛を吹いて喜んだオリバーに、日野はキッと視線を向けた。だが、ヘラヘラと笑っているオリバーの瞳はやはりどこか寂しそうで、何故か心から憎めない。オリバーだって、誰かを、何かを傷つけるたびに、自分自身の手も心も痛んでいるはずだ。
もうグレンたちの元へは行かせない。誰も傷つけさせない。
「この世界で出会った人たちは、灰色だった私の世界にたくさんの色をくれた。私の破壊のカは、そんな大切な人たちを守るために使う。悔しいけど、あなたも私に色をくれた。だから、殺さずに止めてみせるよ」
そう言うと、オリバーの目が見開いた。驚いた一瞬の隙を突いて、日野はオリバーを蹴り上げる。しかしオリバーは紙一重で避け、瞬時に体勢を立て直した。日野の追撃も難無く躱された。何度も繰り返される攻防に、冷たい地面が揺れる。日野の小さなブーツがめり込んだ跡がくっきりと刻まれ、それを中心に広がる亀裂が衝撃の大きさを物語っていた。
逃げ回るオリバーを追いながら、日野はグレンたちをチラリと見やる。何かしているようだが、何をしているかまでは落ち着いて見ることが出来ない。きっと何とかなる。今はそう信じて、戦うしかなかった。
「余所見してたら、反撃しちゃうよ」
不意に背後から聞こえてきた声に、日野はビクリと身体を震わせる。反射的に飛び退いて声から距離を取ると、オリバーが楽しそうに笑っていた。
「ちゃんとオレのこと見てくれなきゃ怒っちゃうよ、オネエサン」
余裕のある表情から、本気は出していないことが窺える。遊ばれているようだが、それでいい。日野は再び、オリバーへ飛びかかった。
月と屋敷の明かりが二人の影を映し出し、空はどこまでも鮮やかな星を瞬かせている。人々が怯え隠れた街の中、日野はグレンたちを信じて、一人戦い続けた。