百八十 飛ばして
もう少し、あと少し。そうやって歩き続けて何時間が経っただろうか。いつの間にか空は暗くなりはじめていた。ヒュウヒュウと吹き荒ぶ寒風が体温を奪い、皮膚を氷のように冷たくする。
雪道で皆の歩く速度が遅くなっていたこともあり、目的の街は予想以上に遠く感じた。これ以上暗くなれば、動けなくなってしまう。このまま歩き続ける訳にはいかない。
「そろそろ走ろうか」
日野の一声で、この先は走って街まで向かうことになった。今朝話した通り、ルビーが乗っている黒い馬にハルとグレンも跨った。慣れない手つきでグレンが手綱を引く。そして、刻がローズマリーを抱きかかえ、ローズマリーは刻の首に手を回して全身から喜びを放出していた。
「身体中からハートが出てるように見えるのは私の気のせいかな」
幸せそうに刻を見つめて寒さなど感じていない様子のローズマリーに苦笑しながら、日野は破壊の力を呼び起こした。瞳は金色に染まり、爪が長く鋭く変化する。遠くに誰かの叫びがこだまするが、頭痛はない。大丈夫、コントロール出来ている。
ギュッと拳を握って、日野は自身の中に湧き上がる力を感じた。そして皆を見回してコクリと頷くと、グレンと子供たちを乗せた黒い馬が、地面を蹴った。風の如く走り去っていった黒い馬。子供たちの楽しそうな笑い声と、グレンの叫び声が遠くに消えていく。
「……速すぎる」
ポツリと呟いたまま呆気に取られていると、刻に声をかけられた。
「遅れるな、行くぞ」
その声にハッと我に返ると、刻の背中は既に小さくなっていた。
「ちょっ、待って! 待ってよ!」
日野は慌てて地面を蹴った。普通の人間には出せない速度で雪道を駆けていく。冷たい向かい風が頬を切るように過ぎていった。日野と刻が、先を走っていたグレンたちに追いつくと、ハルとルビーが楽しそうにはしゃいでいた。
「わあああああ! 冷たーい!」
「アル、見て! すごいよ! 星があんなに速く動いて見える! ほら、グレンも見て見て!」
「俺はそれどころじゃねぇ!」
ジェットコースターとまではいかないが、揺れる馬の上はちょっとしたアトラクションのようなものだろう。グレンは手綱を離すまいと必死になっている。
「大丈夫かな……後で気分が悪くならなきゃいいけど」
日野が黒い馬と並走しながら、グレンの様子を見て言った。揺れが苦手な人は気分が悪くなって吐いてしまうこともある。グレンがそうとは限らないが、街に着いたら少し休ませてあげよう。……次の街は、果たして安全だろうか。そう思い、日野はオリバーの匂いがしないかと冷たい風を吸い込んだ。
──その時、微かに血の匂いがした。それは、進むごとにどんどん濃くなっていく。日野は、驚き目を見開いて、自身の嗅覚を疑った。知っていたからだ。その血の匂いの人間を。
「ザック先生!!」
日野は無意識に叫んでいた。最悪の結果が頭を過ぎる。刻へ視線を向けると、彼も血の匂いに気付いていたようで、その表情は怒りと焦りに満ちていた。
一刻も早く街に着かなければ。その気持ちから、どんどん走る速度が上がっていく日野と刻に向かって、グレンが声を上げた。
「おい、一体何があった?」
尋ねてきた声の方へ視線を向けると、グレンの前にいるハルが、アルを見つめたまま固まっていた。アルは、両手を振りながら必死でハルに伝えている。
──ザック先生が危ない。
これ以上、ハルには何も失わせたくない。日野はじわりと滲んだ涙を拭って、グレンに伝えた。
「グレン、街の方からザック先生の血の匂いがする。それに、さっきから近づくほど濃くなってる。少しの出血じゃここまで濃くはならないはずだから、もしかしたら……」
「オリバーか?」
「分からないけど、誰かに襲われてるかもしれない。だから早く……早く行かなきゃ」
日野が焦る気持ちを抑えながらそう伝えた時、ハルの口が微かに動いた。
「……て」
驚きと恐怖に震える小さな唇が、必死に声を振り絞る。
「飛ばして! グレン!」
「わかった」
ハルの声に、グレンが頷く。そして、日野、刻、黒い馬は更に走る速度を上げた。もう止まることはできない。あと少しでたどり着く。このまま街に突っ込むことになりそうだ。血の匂いに混ざって……微かにオリバーの匂いがした。
いる、この先に。破壊の力を手にした本物の殺人鬼が。一刻も早く止めに入らなければ、アイザックの命が危ない。それどころか、もしかしたらもう手遅れかもしれない。
大切な人を失う恐怖に急き立てられながら、日野たちは星明かりに照らされた雪道を走っていった。
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