百七十八 快楽
オリバーは、スタスタとアイザックの方へ歩いて行った。曲の途中でピタリと止まった演奏に、周囲の参列者が何事かとざわめいている。
誰かにぶつかっても気にも留めず、どんどんと近付いてくるオリバーの姿に、アイザックの周りに集まっていた女性たちの視線が釘付けになった。
「あら、演奏が止まったわね。どうしたのかしら?」
「こちらに向かってきているし、きっとアイザック様とお話したいのよ」
「あなた、どこの方? アイザック様はいま私たちとお話しをして──きゃっ!?」
進行方向を塞いだ女性を、オリバーは突き飛ばした。そして、アイザックの目の前に来ると、背の高い彼を見上げた。こちらを見つめ返す青い瞳は、少し怒っている。
「何をするんです? もし怪我でもしたら──っ!?」
言いかけて、アイザックの言葉が止まった。違和感を感じて青い瞳が下を向くと、腹部にはナイフが突き刺さっていた。どこから取り出したのか、そのハンドルは目の前の深紫色の髪の女が握っている。真っ白だったアイザックの服がたちまち鮮血に染まっていくと、会場から次々に悲鳴が上がった。
混乱しはじめた会場の様子にニヤリと笑みを浮かべて、オリバーはナイフを思い切り引き抜いた。そして、血の噴き出した腹部を蹴り上げてやると、アイザックは苦悶の声を上げてその場に倒れた。
「もし怪我でもしたら……その時は治せばいいじゃない。だってこれは、医者のパーティーなんでしょ? ねぇ、オニイサン?」
真っ赤なリップを塗った唇が動き、聞こえてきたその声にアイザックは目を見開いた。
「あなたは……オリバー・テイラー?」
「やっと気付いてくれた? 可愛いでしょ。オニイサンに会うために頑張ったんだよ」
そう言って、ナイフについた血を舐め取るオリバーに、アイザックは顔を顰めた。
「趣味の悪い人ですね……それより、私に何の用です? あなたはローズマリーを狙っていたはずでは?」
「そうだよ。だから目的の邪魔をするオニイサンから壊してあげるんだ。あの薬……今持ってる?」
「いいえ。持っていませんね」
オリバーの問いにアイザックが答えた時、ジリジリと近づいてきていた他の医者が、オリバーを捕らえようと掴みかかった。それに気付いたアイザックが慌てて声を上げる。
「やめなさい! その女は──」
しかし、間に合わなかった。オリバーの深紫の瞳が、金色に変わる。鋭く形を変えた爪に、医者たちは次々に切り裂かれていった。腕が、首が、まるでオモチャのように飛ばされて、切り口から真っ赤な血が噴き出した。明るかったパーティー会場は一瞬で血の海となり、混乱した参列者が逃げ惑う。
自分が参加したせいで、敵の存在に気付けなかったせいで、死者を出してしまった。その事実に、アイザックは唇を強く噛んだ。
「殺したいのは私だけでしょう? 他の人間には手を出すな」
「じゃあ逃げてみなよ、この屋敷から。誰もいない場所に行けば、二人きりになれるよ? それとも、もっと巻き込みたい?」
殺された医者と恋仲だったのか、一人の令嬢が泣き崩れていた。その背中に、オリバーの爪が向けられる。
「やめろ!!」
アイザックは叫ぶと、立ち上がろうと足を動かした。しかし、床に流れた血液が滑り、うまく立ち上がれない。服も、傷口を押さえた手も、真っ赤に染まっていた。
それでもなんとか立ちあがり、アイザックは屋敷の外を目指して走り出した。痛みで息が上がる。足がもつれ、視界が霞む。傷だらけの身体はいうことを聞かなかった。
屋敷内にいた執事やメイドも大慌てで走り回っていた。彼らも、自分に近づけばオリバーに殺される。アイザックは使用人を避けながら出口を探した。そして、大きな扉を見つけると、ガチャリと音を立てて外へ飛び出した。
冷たく澄んだ空気が身体を冷やす。見上げると、美しい星空が広がっていた。コツコツと近づいてくる足音が聞こえ、アイザックはまた走り出す。出来るだけ遠くへ、街の人たちを巻き込まない場所へ行かなければ。しかし、もつれた足は無常にも身体を地面に叩きつけた。倒れたまま、動けない。
「もうオシマイ?」
不満そうなオリバーの声が聞こえる。霞んだアイザックの視界には、上から覗き込んできたオリバーの姿と、ゆらゆらと揺れる深紫色の髪が映っていた。
「つまんないの」
肩を落とし、オリバーはそう呟いた。
目の前に横たわる医者は、必死に腹部を押さえているが、その傷口からは血が流れ続けている。定まらない視点に、荒い息遣い……弱っていく姿は、オリバーの脳にゾクゾクとした快感を与えた。
オリバーは、動けないアイザックの服をまさぐると、ポケットから白いケースを見つけた。開くと、薬と注射器のセットが入っていた。持ち歩いているということは、おそらくこれは破壊の力を抑制するための薬。
「これさ、普通の人間に打ったらどうなるの?」
興奮した様子で、オリバーは尋ねた。アイザックに馬乗りになると、カチャカチャと注射器を準備する。
「やめ、ろ……」
もう言葉を発する力も残っていないのだろう。力無く止めようとしてきた手を振り払い、オリバーはアイザックの首筋に薬を打ち込んだ。
「ぐっ……ああああああああああ!!?」
目を見開き、両手で頭を押さえ、アイザックは叫びながら身体をバタつかせた。力が入ったせいで腹部の傷口から更に血が溢れ出る。暴れるアイザックを押さえつけ、オリバーは全身に広がる快感に顔を歪めた。
「あは……あはは。アハハハハハハハハ! イイネ……その顔、最高だ。ローズマリーたちが到着するまでもう少し時間がある。もっと楽しませてよ、オニイサン」
暗く怯えた街の中に、オリバーの笑い声が響いた。助けに出る者はもう、誰もいない。明かりの消えた街を、空に広がる星屑だけが照らしていた。