百七十七 準備はいいかしら
それは、とある街でパーティーがはじまる少し前のことだった。オリバーは街の地下で小さな部屋を借り、フリルのついた暗い色のドレスを自身の身体に合わせていた。
大きさを背中の紐で調節できるそのドレスは、昨晩仲良くなった飲み屋の女の子に貰ったものだ。
女の子に案内された衣装部屋には、色とりどりの愛らしいドレスがずらりと並んでいた。そして試着していくうちに、埋もれていたこの黒いドレスを見つけたのだ。
暗い色はあまり着る子がいないからという理由で放置されていたこともあり、少し埃がついていた。だが、問題ない。汚れた服をどうすれば綺麗にできるか、ドレスの着方やサイズの合わせ方まで嫌という程叩き込まれてきた。化粧だって慣れたものだ。
オリバーは黒いドレスを着終わると、鏡台の前に座り、鼻歌を歌いながら髪に巻きつけていた布を解きはじめた。スルスルと布が解けていくと、深紫色の髪が綺麗な縦巻きになって現れる。
徐々に女性へと姿を変えていくオリバーを見て、不満いっぱいの顔をしたノワールが言葉を吐き捨てた。
『なんで僕までおめかししなきゃならないのさ』
首に付けられた桃色のリボンがふわりと揺れる。眉間に皺を寄せている黒猫を見て、オリバーは楽しそうに笑い声を上げた。
「イイじゃん。せっかくのパーティーなんだから、楽しまなきゃ」
『僕はオリバーにしか見えないんだから、いつも通りでいいでしょ。それに、パーティーを楽しむなら男の格好でも良かったんじゃない?』
「せっかくオレが綺麗になってるのに、ノワールがいつも通りの格好だとオレの気分が下がるでしょ? それに、男の格好だとアイツにすぐ気付かれちゃうし、女の格好のほうが何かと都合がいいんだよ。ハイ、完成! 可愛いね、オレ」
『可愛いけど、その言葉遣いじゃあね……』
「アラ、ごめんなさい。それじゃあ、そろそろ時間だし。ワタシたちもパーティーへ向かいましょうか。ね、ノワール様?」
『……はいはい』
少し高めの声で話しはじめたオリバーに、ノワールが呆れたような眼差しを向ける。溜め息混じりに返事をして、ノワールはオリバーの肩に飛び乗った。
最悪の物語のはじまりまで、あと少し。
地下を出たオリバーとノワールは、街で一番大きな屋敷を目指して歩いて行った。
◆◆◆
オリバーが屋敷に着くと、丁重に迎え入れられた。執事に案内されるがまま広い廊下を歩き、会場の側にある個室に通される。
この屋敷の主人で今日のパーティーの主役である院長には、事前に話をつけていた。誕生日パーティーに自分をピアニストとして参加させなければ妻と娘を殺す。そう言って少し脅しただけで、すんなり協力してもらえた。
準備には多少時間がかかったが、それだけの手間をかけてでも、あの医者は殺しておく必要があった。アイツが作った得体の知れない薬……それを身体に打ち込まれた時、ゾクゾクと全身から力が抜けていき、意識が飛びそうになった。破壊衝動が消え、頭に響いていた誰かの叫び声が遠のいていき、心の闇が晴れていく。そんな、えもいわれぬ恐怖が襲いかかった。
あれは、この世にあってはならない薬だ。己の全身が危険だと訴えている。だから、その製造者を殺して危険を根元から消し去る、それが今夜の目的だ。ついでに、ノコノコ現れたオネエサンたちからローズマリーを奪えたなら一石二鳥。一番厄介だと感じるモノから順番に壊していこう。消したい過去も、邪魔な現在も、見えない未来も、ぜんぶぜんぶまとめて破壊してやる。
オリバーは真っ赤なリップを塗りなおし、賑わってきたパーティー会場へと移動した。
騒がしい会場は派手な女ばかりで、自分が紛れ込んでも誰も気にしなかった。豪華な料理の匂いが鼻をくすぐる。酒を飲み、美味い飯を食って上機嫌な人間たちの間をすり抜けて、オリバーは真っ直ぐにピアノへ向かった。
蓋を開けて、鍵盤に指を這わせる。手入れの行き届いた美しいピアノだった。普段はここの娘が弾いているらしい。
『なにを弾くの?』
譜面台の横に寝転がったノワールが尋ねてきた。
「そうね……コイツらの声を、代わりに届けてあげましょう」
小さな声でそう答えると、オリバーは目を閉じた。頭の中に、誰かも分からない人間たちの声がこだまする。絶望のどん底を這うようなソイツらの叫び声と、自身の中から溢れ出る破壊の快楽。ねじれた心の織りなす旋律を、オリバーは奏ではじめた。
その音色に吸い寄せられるように、皆が視線を向ける。その中に、獲物の目を見つけた。アイザックの青い瞳が、訝しげにこちらを見つめている。
「まずい……気付かれたかな?」
誤魔化すようにニッコリと笑みを向ける。するとアイザックも笑みを返し、少し首を傾げてこちらから視線を外した。
『バレたんじゃない?』
「大丈夫、大丈夫。気づいてたらもっと嫌な顔するだろうし、あの様子じゃ心配ないわよ」
『オリバー……自分が嫌われてることはちゃんとわかってるんだね』
「コラ、怒りますわよ」
クスクスと笑うノワールに、ムッと頬を膨らませながら、オリバーはピアノを弾き続けた。
ノワールから聞いたオネエサンたちの位置と、そこからこの街までの距離。女子供の歩行速度から到着時刻を予想する。アイザックの体力を削り落とした頃に鉢合わせするように、タイミングを見計らった。
「ノワール、準備はいいかしら?」
『いつでもどうぞ』
そして、太陽が隠れて街が薄暗くなった頃、オリバーは奏でていたその旋律を、ピタリと止めた。