百七十二 二度は言わない
宿へ向かいながら、ローズマリーは思い出したようにクスクスと笑い出した。先程見たショウコの顔が頭に浮かぶ。必死に誤魔化そうとしていたが、気を使ってくれているのがバレバレだ。だが、嬉しかった。ルビーには申し訳ないが、久しぶりに刻と二人きりになれる。
ありがとう。心の中でそう呟いて、刻の一歩後ろを歩いた。
静かな宿の中、帰り着いた二人はそれぞれ寝支度をはじめていた。ローズマリーは、お風呂上がりの髪を乾かしている。よく拭いて、香りの良いオイルをつけた。まだホカホカと温かい身体を包んでいるのは、ワンピースの形をした寝巻き。ふわふわの生地で一番のお気に入りだ。
「うん。今夜も可愛いわ!」
ローズマリーは鏡に向かって小さな声で気合を入れた。朝と晩に、こうして自分を褒めるのが日課である。今日と明日を元気に生きるためのおまじない。幼い頃、母にそう教えられた。ふと思い出した母の姿を懐かしく感じながら、髪をとかしていく。
ふんわりとウェーブのかかった髪が乾いた頃、気がつくと刻も風呂を済ませていた。白いシャツを着崩して、自分のベッドに座っている。手元には青い本。開いたページを読んでいる様子だった。
いつもなら近づくだけで早く寝ろと言われる。同じ部屋に泊まっても、刻は指一本触れてくれない。だが、今夜はなんだか近寄ってもいい気がした。刻の座るベッドへローズマリーは近づいていった。
一歩、また一歩と距離が縮まる度に、ドクドクと心音が大きくなっていく。刻のベッドの目の前に立って、ローズマリーはそっと声をかけた。
「刻。あの……」
「なんだ?」
刻が、パタンと本を閉じてこちらを見た。破壊の力を出していない刻の瞳は闇のように真っ暗で、吸い込まれそうだった。
「私、隣に座っていいかしら?」
「好きにしろ」
「えっ!? いいの? ほんとに? ほんとにいいの!?」
「うるさい。好きに……いや、手を出せ」
言われるがまま、ローズマリーは利き手を出した。すると、グイッとその手を引かれ、身体がぐらりと傾いたかと思ったら、いつの間にかベッドの上に座らせられていた。すぐ隣には刻が座っていて、その体温を感じることができる。
刻が、引き寄せてくれた。はじめての出来事に、体温の下がりはじめていた身体が再び熱を帯びていく。赤くなった頬を隠すように俯くと、刻の低い声が響いた。
「嫌だったか?」
「ち、違うわ! その、私、刻のことが──」
好きで……そう言いたかったが、顔を上げると目の前に刻の顔があって、言葉が止まってしまった。真っ白い髪に、長く白いまつ毛。消えてしまいそうなくらい、美しい。
「ローズマリー。二度は言わない、よく聞け」
真っ直ぐに見つめられ、ローズマリーはコクリと頷いた。
「好きだ」
一瞬だった。だが、聞き逃すことはなかった。長い間、聞きたいと願っていたその言葉が、耳に届き、心に響いて、身体中に広がっていく。大きく見開かれていたローズマリーの瞳から、ポロポロと涙が溢れ出した。
「……迷惑か?」
「違うわ。嬉しいの。私も、刻が好き。出会った頃からずっと、ずっとずっと好きだった」
涙ながらにそう伝えると、刻は口角を上げた。グッと身体を引き寄せられ、サラリと揺れた白髪が頬をくすぐる。ゆっくりと気持ちを確かめ合うように、二人は唇を重ねた。
だんだんと深くなっていく口付けに、息が上がっていく。もっと触れていたい。そう思い、ローズマリーは刻の身体に触れた。すると、ビクンと勢いよく彼の身体が跳ねた。触れる度に反応を示す彼に愛しさが込み上げてくる。
「刻。あなた、もしかして触られるの弱いの?」
「破壊の力……を持つ者は、感覚が鋭くっ……な、る。一番強く感じるのは、痛覚だが、その他の感覚……も、ある程度は強……くっ……ローズマリー、触るのをやめろ」
「あ……可愛くって、つい」
刻の声に、ローズマリーはハッとして身体を離した。よく見ると、先程まで涼しい顔をしていた筈の刻は、頬を真っ赤に染めて息を荒げている。
そんな顔をされたら、もう止められない。ローズマリーは刻を組み敷くと、垂れた栗色の髪を耳にかけて、ニヤリと妖艶な笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。でも、興奮しちゃう」
そう言って、ローズマリーは再び刻に口付けた。
◆◆◆
キラキラと雪に光が反射して、深呼吸をすると冷たい空気が身体の中を循環する。よく晴れた清々しい朝だった。
日野はグレンと子供たちに朝食を食べさせて、出立の準備を終えた。刻とローズマリーも、朝食は自分たちで済ませているだろう。
いつものようにリュックを背負うと、日野はグレンたちと共に宿の外へ出た。宿の受付に二人のことを尋ねると、馬を連れてくると言って先に宿を出たそうだ。
「馬を連れてくるだけなら時間はかからないだろうし、ここで待ってようか」
「ああ……」
「グレン、そろそろ起きなよ。ボクら子供も起きてるのに」
「うっせ……」
「私のチョコレートあげようか? 目が覚めるかも」
「……遠慮する」
まだ目の覚めきっていないグレンをハルとルビーがつついて遊んでいる。走り回る二人に両手を掴まれて、グレンの身体がグルグルと回転しはじめた。
穏やかな朝を迎えられたことに感謝しながら、刻たちはまだかなと日野が辺りを見回すと、少し遠くから刻が黒い馬を連れて歩いてきていた。
だが、なんだか様子が変だ。黒い馬にローズマリーが乗っているのだが、何故か疲れたようにぐったりとしている。日野は近づいてきた刻たちに駆け寄ると、訳を尋ねた。
「おはよう。どうしたの? ローズマリー、体調でも悪いの?」
「フンっ、少し思い知らせてやっただけだ」
「思い知らせてって……」
どういうこと? と言おうとして、刻と目が合った。日野はジッと刻を見つめたあと、ローズマリーへ視線を移し、ハッとして頬を染めた。
その時、ルビーの幼い声が辺りに響いた。
「ローズマリー! こんなにぐったりして、どうしたの? 刻、ローズマリーは大丈夫なの?」
「問題ない。二日酔いだ」
「二日酔い? お酒臭くはないけど……」
「甘い酒だったからな」
「甘いお酒……それって美味しい? 私も大人になったら飲める?」
「そうだな」
刻の返事はいつも通り素っ気なかったが、ルビーは気にする様子もなく、甘いお酒を思い浮かべてキラキラと目を輝かせていた。
そんなルビーを横目に、日野は心を落ち着かせる為にフッと息を吐いた。何が起きたかは、おそらく私の想像通りであろう。そして、ルビーの問いに何事も無かったかのように対応していた刻に感心した。
私なら、間違いなく狼狽えてしまっていた。からかう人間がいなくて良かった。日野はホッと胸を撫で下ろして、地図を広げた。
昨晩グレンに教えてもらったのだが、次の街を抜けた先にまた大きな川があるそうだ。その川を越えれば、ザック先生の街まで少し近づくらしい。
もう少し。もう少しだ。ザック先生にはたくさん助けてもらった。次に会った時には、もう大丈夫だと報告したい。破壊の力をコントロールできるようになったことを伝えれば、きっと安心してくれるだろう。
「それじゃあ、みんな揃ったし、行こうか」
少し明るくなった日野の声が、寒空に響いた。日野たちは、再び歩みを進める。冷たい風が、急かすように彼女たちの背中を押していた。