百六十九 草
月が空高く昇った頃、日野たちは近くの宿へ宿泊の手続きを済ませた。大部屋が無かったため、一階の部屋には日野、グレン、ハル、アル。二階の部屋には刻、ローズマリー、ルビーと分かれて泊まることになった。黒い馬は近くの馬小屋に預けている。
それぞれの部屋に荷物を置くと、日野たちは夕食をとる店を探すために宿の入り口に集まっていた。
「グレン、私チーズケーキ!」
「ボクは苺のケーキ!」
「チーズケーキ!」
「苺のケーキ!」
「へいへい。わかったから大人しくしてろ」
グレンが、駆け回るハルとルビーの頭を押さえて動きを止めた。ぐるりと自分の方を向かせると、膝をついて二人と目線を合わせる。
「ケーキは食べても構わない。その代わり、ちゃんと野菜も摂るんだぞ! いいな?」
「えー……」
「えー……じゃない。野菜も摂る。わかったな?」
「はーい!」
「はぁい……」
ハルが元気よく手を挙げ、ルビーは納得していないような返事をして頬を膨らませた。だが、ガシガシとグレンに頭を撫でられて、その顔はどことなく嬉しそうだ。
「それじゃあ、お店を探しに行こうか」
じゃれ合う三人に日野が声をかけ、一行はケーキのある店を探すために再び街の中を歩き出した。見上げると、澄んだ冬の夜空には無数の星が煌めいている。
「綺麗……今日は満月だったんだ」
日野は丸い大きな月を見上げて呟いた。美しい星空や三日月はこれまで何度も見てきたが、これほど大きな満月を目にしたのは初めてかもしれない。
すると、近くにいた街の住民から、聞き慣れない言葉が聞こえてきた。
「今夜はホシカゲが咲くぞ」
「ああ……うちの娘もとうとう……」
「あんた、泣くのには早いよ。しかし、今夜は満月だなんて、縁起がいいねぇ」
「ホシカゲ……あの花の名前かな?」
きっと、ホシカゲという花を使ったお祭りなのだろう。もう少し詳しく話を聞いてみたい。そう思い、日野は街の住民に声をかけようとした。
「あの──」
「おい、お前何やってんだ。店見つかったぞ」
その時、グッと腕を引かれ、振り向くとグレンが立っていた。無数の星と、満月の光に照らされた彼に見惚れていると、軽く頬をつままれた。
ハッとして辺りを見ると、先程までそこにいた街の住民はどこかに行ってしまっていた。ヒリヒリと痛む頬を撫でながら、日野は少し肩を落とした。
「行っちゃった……」
「どうした? 何かあったのか?」
「うん。街の人たちが話してる声が聞こえて。ホシカゲが咲くって言ってたの。きっと、あの花の名前だよ。詳しく聞こうと思ってたんだけど、いなくなっちゃった」
「ホシカゲか……聞いたことないな。それより腹減った。店に入ってから店員に聞いてみればいいだろう。もう行くぞ」
「ご、ごめん。待たせちゃったね」
グレンに手を引かれ、日野はハルたちの待つ店の前まで小走りに向かった。そして、遅いと腹を立てている子供たちに日野が謝ったあと、一行は店内へ入っていった。
席につくなり、刻がバサリとメニューを広げた。真っ先にデザートのページを開き、店員を呼び止める。
「チョコレートケーキ、チーズケーキ、イチゴのショートケーキ、フルーツサンド。それとアイスココアを二つ」
「チョコレートケーキが一つ、チーズケーキが一つ、イチゴのショートケーキが一つ、フルーツサンドが一つ、アイスココアを二つでございますね。ご注文は以上でよろしいですか?」
「今はそれでいい。また後で頼む」
「かしこまりました。少々お待ちください」
にこやかに去って行った店員の背中を見送って、刻はメニューをパタリと閉じた。そして、自分に向けられた鋭い視線を感じて首を傾げた。
「なんだ、まだ決まらないのか?」
「……お前、誰が金を払うと思ってんだ?」
「無論、貴様だ」
「なら、野菜も食え! お前が甘いものしか食わなかったら、子供たちに示しがつかないだろうが!」
「俺は馬ではない。草は貴様らだけで食えばいい」
フウッと息を吐いて寛ぎはじめた刻をグレンが睨みつけ、二人の間にバチバチと火の粉が飛び散りはじめた。
そんな二人の姿にオロオロと狼狽えながら、日野はテーブルにメニューを開いた。覗き込んできたハルとルビーに、日野が声をかける。
「二人のことは気にしないで、何食べるか決めちゃおうか。どれがいい?」
「ボク、ポトフにしよう」
「あら、美味しそうね。それじゃあ私も同じものにしようかしら」
「寒いからちょうど良さそうだね。ルビーちゃんは?」
「同じの」
「じゃあ、頼んじゃうね」
そう言うと、日野は店員を呼び止めた。全員分のポトフを頼み、そのほかのメニューもついでに注文した。
こんなに頼んで、全部テーブルに乗るだろうか。わいわいと賑やかな声の中、日野は苦笑しながらメニューを片付けた。
すると、最初に頼んでいた刻のケーキが続々とテーブルに届けられはじめた。その時、フッと先程の花の名前を思い出して、日野は女性店員に声をかけた。
「あの……」
「はい、ご注文ですか?」
「あ、いえ。ごめんなさい、ちょっと聞きたいことがあって。ホシカゲって、何のことかご存知ですか?」
「ああ……ホシカゲですね」
日野が尋ねると、女性店員は目を細め、懐かしむように答えた。
「それは花の名前です。ホシカゲは、この街の土でしか育たない希少な花です。一年に一度、空が透き通るように晴れた、たくさんの星が出ている冬の夜にしか咲きません。ホシカゲには、永遠の愛、いつまでもあなたを愛します、苦難も共に乗り越える、という花言葉があります」
「素敵な花言葉。もしかして、そのホシカゲが咲くのって……」
「ええ、今夜です。ホシカゲは別名を夫婦の花とも呼ばれています。この街では、ホシカゲの咲く夜に結婚式をするんです。街が慌ただしいのは、その準備をしているからなんですよ」
「そうなんですか。なんだかロマンチック」
日野がうっとりとそう言うと、女性店員は照れ臭そうに左手を見せた。薬指につけられている指輪がキラリと光る。
「誰でも参加できますから、気になるなら行ってみてください。きっと良いことがありますよ。私もほら、二年前に」
「わあ、ご結婚おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
ペコリとお辞儀をして、女性店員は去って行った。
一年に一度しか咲かない花で結婚式……なんてロマンチックなのだろう。結婚なんて考えたこともなかったが、もし、もしもグレンと夫婦になることが出来たら。柄にもなくそんな想像が頭の中を埋め尽くした。顔が緩んでいくのを止められない。
ふと、日野は向かいに座るローズマリーに視線を向けた。彼女も同じような想像を膨らませているのだろう。真っ赤になった頬を両手で包んで、バタバタと身体を左右に揺らしていた。
この世界の結婚式。あの花を使って、一体どんな風に行われるのだろう。気になって仕方がなかった。参加したい気持ちを伝えるためにグレンの方へ向くと、彼の顔も何故だか少し緩んでいた。
「グレン……あの……」
「言っただろ、連れて行ってやるって。飯食ったら行ってみよう」
「ありがとう」
ふわふわと甘い空気を纏って笑い合う日野とグレン。その間に座っているハルとアルが、満足そうに二人を見上げていた。
それに引き替え……と、ルビーが両隣を交互に見る。
右側には、完全に妄想の世界に入り込み、ニヤついたままのローズマリー。左側には、ロマンチックなど興味がないと言わんばかりに目の前のケーキを黙々と食べ続ける刻。
何故だ、何故この二人はこうなのだ。何故、ショウコたちのようにならないんだろう。目の前の日野とグレンを見つめながら、ルビーは頬を膨らませた。
仲が良いとはなんだろう。好きってなんだろう。わからない。たくさんの疑問が小さな頭の中をグルグルと這い回っていた。
すると、コトンと音を立てて、ルビーの目の前に、チーズケーキの乗った皿が置かれた。皿を持つ手の主へ視線を向けると、刻が相変わらずパクパクとケーキを口に運んでいた。
「何を考えている? 食べないのか?」
「……あ、これ私のだったんだ。ありがと……」
ルビーがお礼を言うと、刻はまだ手をつけていなかった苺のショートケーキをハルの前に置いた。
気づいたハルが、目を見開いて驚いている。
「食え。俺の金ではない」
そう言うと、刻はプイッとそっぽを向いた。そんな刻に向かってグレンが、金を払うのは俺だ! と不満をぶつけ、二人の間に再び火花が飛び散った。
そんな二人を見つめて、日野は納得したように小さく頷いた。
思っていた通り。刻という人は、殺人鬼と呼ばれるほどの冷酷な一面と強い力を持っている。だが、本当は優しい男なのだ。少し不器用で、天邪鬼なだけで。
── あの人は誰よりも、普通であることを望んで、本に願っていましたから。
ふと、アイザックの言葉が頭に浮かんだ。
今ゆっくりと流れている騒がしくも温かい時間が、幸せだと感じる。刻も同じように、幸せだと感じてくれていたらいいな……。
驚いたままポカンと口を開けているハルにフォークを渡して、日野は静かに微笑んだ。