百六十三 眠ったか
バシャっと水音を立てて舞い落りた刻に、グレンは痛む腹を押さえながら驚いたように尋ねた。
「お前…… どうして、ここに?」
「確かめに来た。そして、ついさっき分かった。ローズマリーのこと、礼を言う」
「あ? ああ、どういたしまして」
刻は何故か晴れやかな表情をしていた。そして、何が分かったのかは知らないが、ローズマリーをここまで無事に連れてきたことに関しては、感謝してくれているようだった。
しかし、そんなことよりも今は日野だ。刻に蹴られた痛みで動きを止めていた彼女は、ふらふらと再び動きはじめていた。
苦しそうに歪んだ金色の目が、こちらを捉える。すると、グレンの目の前に注射器が差し出された。
「憧子は俺が捕まえる。これは貴様の役目だ」
差し出された注射器をグレンは受け取った。
「破壊を拒めば拒むほど、心は疲弊し、壊れていく。憧子の心は貴様が守ってやれ。俺も……いつの間にか守られていた」
刻はそう言い、遠くで見守っているローズマリーとルビーをチラリと見て、フッと微笑んだ。
「お前に言われなくても守ってやるよ。あいつは、俺の女だ」
「ならばサッサと楽にしてやることだな。行くぞ!」
刻が地面を蹴り、飛び上がったと同時に日野も刻へ飛びかかった。
破壊の力を持つ者同士。遠慮の無い激しい攻防は、目で追うのがやっとだった。雨が降り続き、ぬかるんだ地面でさえ、日野と刻は軽やかに踏みつける。
そして、飛び上がった日野が鋭い爪を振り上げた。
──パシィッ
「!?」
驚いて、日野は目を見開いた。振り上げた手が動かない。折れそうになるほどの強い力で、刻に左手首を掴まれていた。
離せと言わんばかりに右手で抵抗しようとするが、その手首も掴まれた。唸りを上げながら抜け出そうとする日野は、強引に押し倒され、雨に濡れた地面に背中を叩きつけられた。
「──っぐ。あ……グ、レ……」
苦しい声の中に、愛しい彼の名が漏れる。
「やれ」
日野の身体を押し倒したまま、刻がグレンを見た。
「悪ぃな。我慢しろよ」
グレンはそう言って、捲れたスカートから覗く柔らかな太ももに、細い針を刺した。そして、注射器の中の薬を一気に流し込む。薬から逃れようと、日野はジタバタと抵抗しはじめた。だが、刻の力の方が強いのか、拘束が外れることはなく、日野はプッツリと糸が切れたように再び意識を失った。
「……眠ったか」
べちゃりと音を立ててその場に座り込むと、グレンはあぐらをかいてフウッと息を漏らした。
だが、刻は日野に跨ったまま、ジッと彼女の顔を見ていた。考え込むように、眉間に皺を寄せている。
「どうした?」
「いや……気のせいだ」
「気のせいってなんだよ?」
「……」
グレンが問いかけたが、相変わらず刻は日野を見つめたままだ。乱れた服のまま眠る日野と、その上に覆い被さる刻。目の前の景色に無性に腹が立った。
「取り敢えず、お前はそこをどけ。不愉快だ」
シッシッと刻を手で追い払うと、グレンは立ち上がり、冷たく濡れた日野の身体を抱きかかえた。そして、日野が壊した孤児院の壁をチラリと見て、歩き出した。
「壁に穴は空いちまったが、暖炉に火さえつければ多少は温まるだろ。ハルと、あいつらも連れてこい」
「貴様に命令される趣味はない」
「へいへい。頼んだぞ」
呆れた返事を返したグレンは、日野をかかえて孤児院の中へ向かっていった。ズカズカと歩きながら離れていく背中に、刻はフッと口角を上げた。
そして、刻はローズマリーたちを孤児院の中に連れて行くために、彼女たちの集まっている場所まで歩いて行った。
近くまで行くと、何やらローズマリーの様子がおかしかった。湿った木にぐったりと背中を預けて、どこか上の空のようだった。雨に濡れたせいで体調を崩したのだろうか? そんなことを心配しながら近づくと、黒い馬の上でルビーが呆れたように口を開いた。
「刻のせいだよ」
「何故だ?」
「刻がこっちを見つめて微笑んだりするから、ローズマリーの意識がどっかいっちゃった」
「何故だ?」
「いや、だからあの……」
首を傾げる刻に、ルビーは悩んだ。
あの時の状況をうまく説明できるだろうか。何かに射抜かれたように倒れ込み、悶絶した後にどこか遠くへ意識を飛ばしたローズマリーの姿を、どう伝えればいいだろうか。
ルビーは唸りながら腕を組んで考え込む。
そんなルビーを気にも留めず、刻は倒れていたハルを抱えて黒い馬に乗せた。意識を失ったままのハルは、ふわりとルビーの肩に身体を預けた。視界に入った緑色に、チラリと赤い瞳が向けられる。
「!?!?!?」
大きな目を見開いて、ルビーの小さな身体が硬直した。
突然動かなくなったルビーに首を傾げながら、刻はローズマリーへ近づいていく。しゃがんで目線を合わせると、彼女の顔を覗き込んだ。
「ローズマリー」
「は、はひぃ!」
名前を呼ぶと、我に返ったローズマリーがおかしな声を上げた。
「あ……と、刻」
「行くぞ」
短い言葉を伝えると、刻は黒い馬を連れて歩き出した。
「あ、待って!」
背後から、ローズマリーの慌てた声が聞こえた。パシャパシャと背中を追いかけてくる足音を心地良く感じながら、刻は孤児院の中へと向かっていった。
頭の中に、橙色の髪の少女の姿を思い浮かべながら。