百六十一 必要なこと
頭が割れるように痛かった。
グレンたちから離れたあと、日野はある場所に隠れた。この場所に隠れてもすぐに見つかってしまうことは分かっていた。だが、見つけてもらえることを、無意識に願っていた。
目を覚ますと、目の前にはいつものグレンがいた。ニナが出会ったグレンではなく、私が出会ったグレンがそこにいた。
嬉しかった。やっと会えた、そんな気がした。
だが、そんな喜びとは裏腹に、破壊の力が身体を支配した。心配して傍にいてくれていたであろうハルを殴り飛ばした。力は、コントロール出来ていたはず……なのにどうして……。その答えを探す暇もなく、いうことをきかない身体はローズマリーへ飛び掛かった。このままでは殺してしまう。そう思ったが、グレンの咄嗟の行動がそれを回避した。
舞い上がった砂埃の中、目の前の標的を見失っても壊したいという欲求は止まらなかった。誰かの悲しい叫び声が頭の中にこだまする。この世界にきて、青い本を見つけてからというもの、いつもこの声に悩まされてきた。今もそう……悲しい叫び声が……しかしそれは、どこかで聞いたことのある声だった。
──どうせ捨てられるんだ。
それは、澄んだように高く、可愛らしい。
──私はゴミと同じ。どうせ捨てられる。
気を失う前から聞こえていた、ニナの声。しかし、これまでに見てきた思い出の中のニナとは印象が違っていた。
──利用されてるんだ。私はただの便利な道具なんだ。
どうしようもない心の痛みをどこへぶつければいいかわからないといったような、辛く悲しい声が日野の頭の中に響き渡る。
確かにニナはゴミ捨て場で生きていた。しかし、その運命が変わったところをこの目で見た。ニナは、院長先生やグレン、ルーク、子供たちに囲まれて賑やかな孤児院で育ったはずだ。なのにどうしてこんなことを……。
裏庭の茂みに隠れたまま、日野は目を閉じてみた。またニナに会えるなら、彼女が何に苦しんでいるのかを知りたい。何ができるかなんて分かりっこないが、このまま放っておけるほど、ニナを嫌いにはなれなかった。
ギュッと閉じた目の奥で、彼女の声に耳を澄ませる。すると、無限に広がる真っ暗な世界の中で、ボロボロと大粒の涙を流しながらうずくまる彼女の姿が見えた。その周りだけが、不気味な光に包まれている。そして彼女の背後にあるものを見て、日野の心臓がドクリと音を立てた。そこには、煙のようなどす黒いものを纏った青い本が浮いていたのだ。
『青い本が……どうしてあそこに?』
日野は必死でニナのほうへ近づいていこうとした。すると、青い本がこちらに何かを語りかけてきたように感じた。ジッと目を凝らすと、ニナの背後で青い本がパラパラとめくれていった。ピタリと止まったのは、最後のほうの白紙のページ。そこに、ゆっくりと文字が浮かび上がってきた。
──必要なこと
たった一言、そう書かれた。
『必要なことって、いったい何のことなの!? どうして、ニナが苦しまなくちゃいけないの?』
青い本に問いかけるが、答えは書き込まれないまま、パタンと音を立てて表紙が閉じられた。その瞬間、日野は呼吸を忘れていたかのように息を吸い込むと、金色に輝く目を開いた。
「戻された……っう……とにかく、この場所は破壊しないようにしなくちゃ……」
暴走しそうになる左腕を右手で抑えながら、日野はその場にうずくまった。大切な思い出を破壊しないために。
◆◆◆
隠れているようだが、苦しむ声は隠せないようで、日野のいる場所はすぐにわかった。そこは、昔よくニナが隠れていた場所。裏庭の、あまり日のあたらない場所。
逃げ出した彼女を探してそこへ行くのが好きだった。院長先生やルークも知らない二人だけの場所。そんな場所があるのが嬉しかった。まさか、好きになった女が同じ場所に隠れるとは思わなかったが……そう思いながら、ふと目線を下へ向けると、軒下でカチャカチャと手際よく注射器を準備するハルに向けて、グレンは尋ねた。
「お前、いつの間に使い方覚えたんだよ」
「覚えてなんかないよ。ただ、ボクの力じゃショウちゃんを押さえ込むことはできない。グレンがショウちゃんを押さえてくれるんでしょ? だったらその間にボクがやらなきゃ、他に誰がやるの?」
そう言って、にっこりと笑みを浮かべたハルが、以前より少し大きくなったように感じたのは気のせいだろうか。
「無理はするなよ」
「グレンこそ」
フッとお互いに口角を上げた。
守ってやる、必ず。今度こそ、絶対に離したりしない。そう心に誓い、グレンは濡れた地面を蹴って、日野の隠れている場所へと走った。