百六十 守られた
グレンが、背後にいる男の殺気に気がついて振り返った。そこからの数秒の出来事は、酷く長い時間をかけて、音もなくグレンの目の前を過ぎていった。
自身に向けて振り上げられていたであろう斧が、愛するニナの小さな胸を叩き切った。噴き上がる血飛沫が、彼女の身体を赤く染めていく。
グレンを守るように両手を広げていたニナは、ゆっくりと笑って、その場に崩れ落ちた。
「ニナ! ニナ! しっかりしろ! おい、ニナ!」
「悪いな……俺たちも必死なんだ。俺たちだって──」
「ニナ、死ぬな! どうして、どうしてこんなことしたんだ! 頼むから、お前だけは……誰か、誰か助けて……医者を……」
男の言葉も耳に入らず狼狽するグレンの頬に、ニナの手が触れた。そっと引き寄せてキスをすると、ニナはまた笑ってみせた。
「わた……し、守れたかな? グレンを」
「うるせぇ! お前を守るのは俺だろうが! 勝手に死ぬんじゃねぇ!」
「ごめん、ね……」
「ニナ? おい、ニナ……」
ガクガクと震えるグレンの腕の中でニナが目を閉じかけた。その時、院長先生の声が響いた。
「グレン! ニナ!」
──ガウン。
一発の銃声が辺りに響き、何かが勢いよく地面に倒れる音がした。音のした方へグレンが視線を向けると、そこには、胸から血を流している院長先生がいた。
「先……生?」
ハッとして顔を上げると、遠くで銃を持った男が慌てていた。殺すつもりじゃなかった、ガキに当てようとした、そんな言い訳が微かに聞こえてきた。
また、守られた。守らなければならない相手から。
「う……あああああああああああ!」
狂ったようなグレンの叫声が辺りに響き渡った。抱き締められた腕の中で、ニナの身体が冷たくなっていく。
彼女の力が抜けていくと同時に、彼女と繋がっていた日野の意識も朦朧としていった。
泣き叫ぶグレンの声。それが、どんどんと遠ざかっていく。涙に濡れた彼の顔が、霞んでいく。ニナの身体はもう限界のようだった。
そして、日野の意識も限界を迎えていた。こんな辛い記憶を見続けるなんて、グレンの悲しむ顔を見続けるなんて、たえられない。そう思って目を閉じようとした時、日野は薄れゆく意識の中で、泣き叫ぶ彼の向こうに、男たちが引き裂かれたように次々と倒れていく光景を見た。舞い落ちる赤い飛沫の中に姿を現したのは……白髪の男。
──あなたが……グレンを、助けてくれた?
一瞬だけ、その男と目が合ったような気がした。そして、プツンと何かが途切れたように、日野の目の前は真っ暗になった。
疲れた。少し眠ろう。次に目を覚ましたときは、今度こそグレンに会えるだろうか。私の知っている、私だけが知っている、あのグレンに。
そう願いながら、小さな笑みを浮かべて、日野は目を閉じた。
◆◆◆
「ショウちゃん。ショウちゃん、大丈夫?」
ボトボトと大粒の雨の音が聞こえる。ここは、雨を凌ぐために逃げ込んだ孤児院の中だ。ここに着く少し前から様子がおかしかった日野は、火をつけた暖炉の前で先程からずっと胸を押さえてうなされている。そんな日野に、ハルは声をかけ続けていた。
気を失ってから、閉じた瞼が開くことはなく、何か悪い夢でも見ているかのように日野は苦しげな声をあげていた。
傍に座っているグレンやローズマリーも、心配そうにこちらを窺っている。特にグレンは、いつも以上に落ち着きがない。
フウッ、と溜め息を吐くと、ハルは日野の額に手を当てた。
「熱はないのに……どうしたんだろ」
そう呟いて、日野の額の汗を拭った。その瞬間、日野の瞼が勢いよく開いた。
「ショウちゃ──っが!?」
飛び起きると同時に、日野はハルを殴り飛ばした。ゆらゆらと揺れる瞳の色は、鮮やかな金色を纏い、胸を押さえていた手の先は長く鋭い爪へと形を変えていた。その変化のスピードは今までと比べ物にならないほどに速かった。
「ショウコ!?」
「……お前」
日野の金色の目に、グレンが映った。
「ふふふ……あはは……あはははははは」
狂ったように笑いはじめた日野の目から、ボロボロと涙が溢れている。
「どうしたんだよ、あいつ」
「知らないわよ! とにかく目を覚ましたならさっきよりマシよ! 薬があるんでしょ? 早くそれを打って──きゃあああ!?」
ローズマリーが慌ただしく話しているところに、日野が爪を立てて飛びかかってきた。間一髪、グレンがローズマリーを抱きかかえて飛び退ける。
「無茶言うな! 暴走したあいつを止めるのにどれだけ苦労すると思ってんだ! それにしても、こんなに急激に変化するなんて……!?」
振われた爪の勢いで煙のように埃が舞っていた。抱きかかえていたローズマリーをその場に下ろすと、落ちていく埃の中に浮かんだ日野の姿を見て、グレンは目を見開いた。
「ぐ……あ……」
日野は、孤児院の床を壊すまいと破壊の力に抗っていた。両手で頭を押さえ、その手が周囲に当たらないようにしている……そんな風に見えた。
気のせいかもしれない。ただ都合の良いように見えているだけかもしれない。しかし彼女は、力に抗いながら、泣いていた。
「ほんと……よく泣く女だな」
そう言って、フッとグレンが日野に笑みを浮かべると、日野は部屋を飛び出して、孤児院の外へと出ていった。
「ハル! このおばさんは任せたぞ!」
「おばさんじゃないわよ!」
「痛た……言われなくても、ボクが守ってあげるよ。とにかく、ショウちゃんを追おう!」
「ああ!」
強く叩きつけるような雨の中、日野を追って、三人は走り出した。日野が隠れるように逃げていった、孤児院の裏庭へ。
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