百五十八 急げ
『その子はもってあと半年だ。少しでも進行を遅らせたいなら追加で一千万。諦めるか、出直しなさい』
聞こえていた。院長先生に向けて囁かれたアドルファスの低く冷たい声は、日野やニナにも届いていた。
追加で一千万……病気のニナと、食べ盛りの子供たちを抱える孤児院が、そんな大金を払えるわけがない。どうにかして工面するにしても、余命半年ではきっと間に合わない。
治療を受けられなかったこと、ニナの命が残り少ないこと。ある程度予想できた事実に、日野が驚くことはなかった。しかし、どうすることも出来ないこの状況で、少しだけ口角を上げて微笑んでいるニナに、違和感を覚えた。その時、
──これで、良かったのかもしれない。
ホッとしたようなニナの心の声が、日野の耳に届いた。
へなへなと廊下にへたり込んだ院長先生に近づくと、ニナは院長先生をギュッと抱きしめた。
「院長先生、帰ろう。私たちの家に、帰りたい」
「ニナ……そうね。一度帰って、出直しましょう」
二人は頷き合い、グレンに支えられながら立ち上がった。
すると、廊下の向こうからスタスタと足音が近づいてきた。
「シャロンさん」
声をかけてきたのはアドルファスだった。手には小切手を持っている。
「忘れ物です」
人差し指と中指で挟んだそれをヒラヒラと揺らしながら、アドルファスは続けた。
「シャロンさん。あなたがお金を集めるには、ご両親に頭を下げて屋敷へ戻る他ありません。私は金を払えない人間を治療するほど甘くはない」
「……何が言いたいんだよ? ──っんぐ!?」
「小僧は黙っていろ」
揺らしていた小切手をグレンの顔に押し当て、アドルファスは更に言葉を続けた。
「ご両親はあなたを屋敷へ戻したいと願っています。どんなことをしてでもね。そして、あなたを奪った孤児院の子供たちのことが大嫌いだ」
「だから、なんですか?」
「あなたが屋敷へ戻ると言えば、ご両親は考えなおしてくれたかもしれません。だが、あなたは帰らないと言った。これがどういう意味かわかりますか?」
ニヤリと笑った目の前の医者を見て、グレンが眉間に皺を寄せて考え込むような仕草をした。そして、ハッとして顔を上げた。
「……まさか、お前らグルだったのか!?」
グレンが声を出したと同時に、院長先生も何かに気がついたのか、顔を青くした。
その姿に、アドルファスは面白いものを見るように笑い声を上げた。
「ククク……生意気なだけだと思っていたが、なかなか勘のいい小僧だな」
「院長先生! 急いで帰ろう! 孤児院が……子供たちが殺される!」
グレンは大きな声で叫ぶと、戸惑う院長先生とニナの腕を掴んだ。二人の目の前にいるグレンの表情は、怒りに震えていた。
まだ幼さの残るその背中に、アドルファスの楽しげな笑い声を浴びながら、グレンは病院の外へと向かって走り出した。
大きな屋敷の門を飛び出して、近くの馬車に女二人を押し込むと、怒鳴りつけるように御者へ行き先を伝えた。
「急げ!」
グレンの大きな叫び声に驚いた馬を宥めながら、御者は馬を走らせた。
「グレ……どういう、こと?」
ゲホゲホと咳き込みながらニナが訊ねると、グレンはニナをそっと引き寄せて、小さな身体を抱きしめた。
背中を撫でる手は優しいが、その表情はまだ怒りに満ちている。咳が落ち着き、ニナがふと院長先生を見ると、彼女は俯いたままガタガタと震えていた。
突然の展開についていけず、再びグレンを見つめて首を傾げると、彼は悔しげに歯を軋ませた。
「あの医者、知ってたんだ」
「知ってたって?」
「院長先生の親が、孤児院の子供を殺す気だってことをだ」
「……そんな、どうして?」
「前から俺たちは院長先生の親に狙われていたんだ。俺たちさえいなくなれば、娘は屋敷に戻ってくれるって言ってな。これまでも何度か数人の男が孤児院を襲ってきて、その度に俺とルークで追い払ってた。だが、ここ数年ぱったりとそれが無くなったんだ。諦めたんだと思っていたが……」
「私、そんなこと知らなかった!」
「怖がらせたくなくて、ニナや子供たちには隠していたからな。これは、院長先生と俺とルークしか知らない話だ」
ニナを抱きしめるグレンの腕に、力がこもった。
「ニナがあの病院に入院できると知れば、俺やルークが必ず付き添うと踏んで、先生の親はこの話を持ち掛けたんだ。手薄になった孤児院を襲うために……あの医者はそれを知ってて、俺たちを笑ってやがった!」
「待って……それじゃあ、ルークやみんなは?」
「わからない。だが、ルークも喧嘩は強いほうだ。あいつを信じるしかない。……間に合えばいいが」
グレンの言葉を最後に、馬車の中で口を開く者はいなかった。院長先生は俯いたまま、祈るように震え続けている。
静かな森の中に、孤児院へ向けてガラガラと回る車輪の音と、馬の鳴き声だけが響いていた。