百五十五 おかえり
涙も枯れ、空が茜色に染まった頃、孤児院の入り口に女性の声が響いた。
「みんなー! ただいまー! お土産を買ってきたわよー!」
その声に気づいたのか、バタバタとそこら中から足音が聞こえはじめる。
「院長先生! おかえりなさい!」
「せんせー! お土産は?」
「寂しかったよー! 院長先生ずっといないんだもん!」
子供たちが口々にそう言ってはしゃぎ出し、院内が騒がしくなったことに気づいたニナも、入り口まで駆け寄った。
そこには、長い髪をおさげにして、大きな丸眼鏡をかけ、朗らかな笑みを浮かべている院長先生がいた。
「……おかえりなさい」
「ただいま、ニナ。いい知らせがあるわよ、あとで教えてあげるから」
院長先生は、両手をぶんぶんと振りながら、ご機嫌な様子でそう言った。そして、子供たちに急かされ、慌ててお土産であろうお菓子を配ろうとした、その時。
──パァン
開けようとした袋を強く引っ張り過ぎたのか、中のお菓子が床に散らばっていった。
「あらあらあらあら、大変!」
「もー! 先生はおっちょこちょいだなー!」
「先生、袋を開けるときはちゃんとハサミを使わなきゃダメだよ!」
「大丈夫よ、個包装だから落ちても食べられるわ!」
「そういう問題じゃないの!」
ぷっくりと頬を膨らませた子供たちに怒られて、院長先生も同じように頬を膨らませると、大丈夫なのに……とブツブツと文句を言いながら散らばったお菓子を拾いはじめた。
ニナも、足元に転がってきたチョコレートを拾い上げ、院長先生へ手渡した。
「ありがとう、ニナ。私がいない間、何事もなかった?」
「うん。子供たちの面倒はグレンやルークがみてくれたし、私も特に変わったことはなかったよ」
そう言ってニナがぎこちなく笑うと、院長先生はカチャリと眼鏡を上げて、怪しむような顔でニナの頬を両手で押さえた。
「んー? その顔は何かありましたな? 私の目はごまかせないぞ。……色々と報告することもあるし、あとで院長室へ来なさい。グレンとルークも一緒にね」
そう言って、残りのお菓子を子供たちに配りながら、院長先生は自室へと向かっていった。
院長先生は、些細な表情の変化に敏感だ。大雑把でおっちょこちょいではあるが、子供たちのこともよく見ていて、この孤児院では母親のような存在だった。
ニナにとってもそれは同じで、院長先生はたった一人の母親だった。だからこそ心配をかけまいと体調の変化を隠そうとするが、いつもすぐに気づかれてしまう。
「いい知らせって……病院が見つかったのかな……」
「そうなんじゃね?」
ポツリと呟いた時、背後から声をかけられ、ニナは驚いて振り返った。パチパチとまばたきすると、目の前にはお土産のチョコレートを頬張っているルークが立っていた。
「もし病院が見つかってたら、迷わず入院しろよ。お前みたいな根暗がいると院内の空気が悪くなる。とっとと出て行って、さっさと治して早く帰ってこい。……待ってるから」
顔を背けてそう言ったルークに、ニナは思わずクスクスと笑い出した。昔から彼が素直ではないのは知っているが、いくつになっても変わらないその態度になんだかおかしくなってくる。
笑い続けるニナに、ルークは顔をしかめた。
「何がおかしいんだよ」
「ううん、なんでもない」
「ふん。そうやっていつも笑ってろ。お前は笑ってたほうが…………んだ」
「ん?」
「なんでもねぇよ。あとで院長室に行くんだろ? 俺はグレンの手伝いをしてくるから、お前は自分の部屋にいろ。やること済ませたら迎えに行く」
ごにょごにょと濁したルークの言葉が聞き取れず、反射的に首を傾げたが、彼はそそくさと去って行ってしまった。
グレンはまだ夕食の準備中で手が離せなかったのだろう。院長先生はグレンとルークも一緒に来るように言っていた。
「手伝いに行ってもルークに追い返されそうだし……二人の仕事が終わるまで部屋で待っていようかな」
そう言って、ニナは自室へと戻って行った。
子供たちを食堂へと向かわせ、静かになった院長室。
そこで、自身の机に腰を下ろし、院長先生は一枚の紙を眺めていた。その紙には、病院とその院長の名前、そして孤児院からそこまでの道を示す地図が書かれていた。
──ベル病院 院長アドルファス・ベル
「ここなら……ニナの病気が治せる。お金も準備できた。何も、心配ないわよね」
院長先生は、机の引き出しに紙をしまうと、窓の外に広がる鮮やかな夕焼けを見つめて、祈るようにそっと目を閉じた。