百四十九 ハル
たくさんの星が瞬いていた空を、雲が隠しはじめていた。明かりを消した暗い部屋の中。夕食を終えた一行は、眠りについていた。
しかし、若い女の声が、日野の眠りだけを妨げていた。
── どうせ捨てられるんだ。
悲しげな女の声が頭に響き、強烈な頭痛が日野を襲った。
「──っ、ん……」
口を押さえて、声を我慢した。
まだ大丈夫だ。我慢できる。休んでいるグレンたちを起こすわけにはいかない。そう思い、手探りで薬を探した。
しかし、いつもスカートのポケットに入れていたはずの薬がなかなか見つからない。
ふと、それをコートのポケットに移動させていたことを思い出した。
「そ……か。あっちに……」
──来ないで。来ないで。
絶え間なく響く女の声。呼吸が浅くなり、目眩がした。
「……だ、め」
掠れた声でそう言って、伸びはじめた爪を押さえるが、身体の変化は止まらない。力はコントロールできていたはずなのに……どうして。
もう抑えられない。そう感じて、我を失いかけた。だが、瞳の色が完全に変わる寸前、誰かがベッドから飛び起きた。
そして、小さな手が、日野の腕を掴んだ。
「お姉ちゃん、こっち」
「ハ……ル?」
ハルは腕を掴んだまま、日野を無理矢理外へと連れ出した。
街に吹く冷たい風が、体温を下げた。宿から遠ざかっていくと、女の声は聞こえなくなり、しだいに頭痛はおさまっていった。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「う、うん。ありがとう、ハル」
「どういたしまして。もう大丈夫そうだね……落ち着いたら宿に戻ろう。それまで僕も一緒にいるよ」
そう言って、ハルが笑った。
しかし、その笑顔にどこか違和感を感じた。目の前にいるのは紛れもなくハル本人なのだが、なんだか別人のように見えた。
「……あなた、もしかして」
「おい! お前ら、そんなところで何してやがる!」
日野が言いかけた言葉を遮るように、静かな街に怒鳴り声が響いた。
声がしたほうへ振り向くと、眉間に皺を寄せ、ゼェゼェと息を切らせたグレンが立っていた。
「グレン!? ご、ごめんなさい。ちょっと色々あって……」
「色々って何だ?」
「それは……」
「黙っていなくなるな! バカ女!」
「ご、ごめんなさ──」
ズカズカと近づいてきたグレンに抱き締められ、日野の言葉は再び遮られた。
寒さのせいか、グレンの身体は小刻みに震えていた。日野は、コートも着ないまま飛び出してきた彼の背中に手を回し、温めるように撫でた。
「私、変化を抑えられなくて。それで、ハルが連れ出してくれたの」
「……」
「また心配させちゃったよね」
「……」
「……グレン?」
「突然いなくなるのはやめろ。何かあれば俺を起こせ。俺の傍から離れるな。何度言えば分かるんだ!」
耳元で、グレンの怒声がキンと響いた。しかし、怒っているはずのその声は、悲しげに震えていた。それは寒さのせいではない、そう感じたのは気のせいだろうか。
どうしても、一人で解決しようとするクセが抜けない。そのせいで、何度も彼を傷付けているというのに。どうしても、無意識に遠慮してしまう。
「今度は、ちゃんと起こすよ」
「嘘だ」
次こそはと思ってそう伝えたが、彼は納得しなかった。
「嘘じゃないよ。私、頑張るから」
「お前の言葉は信用できん。今夜から一緒に寝る」
「え?」
行くぞ、と言って、グレンは日野の手を引いてズカズカと歩き出した。
どうしてそういう結論に至ったのか分からず、日野は混乱しながらグレンに引きずられていく。
すると、ハルがパタパタと後を追いかけてきた。
「ねぇねぇ、グレン。僕もグレンと一緒に手を繋いで歩きたいなあ」
「……なんだよ、突然。気持ち悪ぃな」
「だめ?」
グレンの隣を歩きながら、ハルが目を潤ませて首を傾げた。すると、チッと舌打ちしたグレンは、ハルの頭を撫でて、その手を差し出した。
「ありがとな。こいつのこと」
「どういたしまして。あ、僕は真ん中がいいなあ。グレンとお姉ちゃんの間に入りたい」
そう言って、ニコニコと見上げてくるハルに、日野とグレンは目を見合わせると、手を離した。
満足そうな表情のハルを真ん中に、今度は三人で手を繋いで足早に宿へと戻った。
その後、部屋に戻ったハルは意識を失ったようにベッドに倒れ込み、そのまま眠りに落ちた。
そして日野は、グレンにしっかりと抱き締められ、その腕から抜け出せないまま、同じベッドで眠ることとなった。
ドクドクと心臓が強く脈打つのは、彼が隣にいるせい。それだけだろうか? 発作のように起こりはじめた身体の変化。それに対しての不安も少なからず影響している気がした。
もう二度と、彼を傷つけたくない。血塗れのグレンの姿が頭に浮かび、日野はそれをかき消すように、ギュッと目を閉じた。