百四十六 恐れているもの
窓から差し込んだ日の光が眩しくて、目を開けた。日野は、頬にかかった髪を払うと、眠たい目を擦った。
今は何時だろう。温かくて、ぐっすりと眠ってしまった。グレンもまだ、抱き締めたままの体勢で眠っていた。
ふんわりと香る彼の匂いに、もう少しこのままでいたいと思ってしまう。しかし、早く起きなければ、またハルとローズマリーにからかわれてしまいそうだ。
日野は、身体を動かすと、グレンの腕の中から脱出した。愛しい彼の匂いから離れると、ココアと……サンドイッチのような匂いがした。
まさか……。考えたくなかったが、冷や汗を流しながら、恐る恐るテーブルへ視線を向けた。
「ショウちゃん、おはよう」
「おはよう、ショウコ。グレンの腕の中でゆっくり眠れたかしら?」
そこには、ニマニマと笑みを浮かべて朝食を摂っているハルとローズマリーがいた。
日野は左手を額に当てて、うなだれた。しまった……やってしまった。早起きしようと心に誓ったにも関わらず、寝坊してしまった。
「おはよう、みんな。ゆっくり眠れました」
顔を真っ赤にさせて日野が答えると、ローズマリーが立ち上がった。
「ココアを入れるわ。お隣の恋人も起こしてあげて」
「あまり起きなかったら、目覚めのキスをしたらいいってザック先生が言ってたよ。グレンはキスする直前に飛び起きるらしいけど」
「……ありがとう。どうしても起きなかったらやってみるね」
それは目覚めたというより、無意識に拒否反応を起こしているだけなのではないだろうか。グレンに悪戯をして楽しんでいるアイザックの姿が、容易に想像できた。
日野は、早起き出来なかった自分に情けない気持ちになりながら、グレンに声をかけた。
すると、彼はすんなりと身体を起こした。だが、いつものごとく頭は起きていない。ふらふらとテーブルに着くと、グレンは目の前に出された朝食を食べはじめた。
日野も、美味しそうなサンドイッチの匂いにつられ、朝食を口にした。
それから一時間ほど経っただろうか。ようやくグレンが目を覚まし、全員が出発の準備を整えた。
次に向かう街は、ハルが生まれ育った街の隣街。ハルの弟、アルバートが刻と出会った場所。幼い双子の運命が、狂いはじめた場所だった。
「行くぞ」
グレンの声で、全員が動きだした。まだまだ冷たい風の吹く道を、足早に進んでいく。寝坊して少し出遅れた分、次の街に着くのはいつもより遅くなるだろう。
「悪いことしちゃったなぁ……」
ハルと手を繋いで歩きながら、申し訳なさそうに日野が呟いた。その時、
──チリン
鈴の音が鳴った。ハルの肩の上で、休んでいたアルが飛び起きた。アルは、ハルの頬をペシペシと叩いて、すぐにそのことを伝えた。
『まさか、こっちのルートだったとはね。どうりで近道を探してもいないわけだ。でも一体何のために? ひとまず、オリバーに報告しよう』
人の耳には届かないその声が、辺りに響いた。
アルの報告で、日野は警戒しながら匂いを探った。しかし、オリバーの匂いは感じなかった。オリバーを探す手がかりとなる猫の匂いも近くにはないようだ。
「やっぱり、オリバーはまだローズマリーを狙ってるのかな?」
「ああ。油断できないな。気を引き締めるぞ」
そう言ったグレンに、日野はコクリと頷いた。
そして、ふとローズマリーを見ると、彼女の顔は青ざめていた。心配になり、日野はローズマリーに触れようとした。その時。
──パシッ
日野の手は、ローズマリーによって弾かれた。
「ローズマリー?」
「や……やっぱり私、一人になるわ。これ以上一緒にいれば、あなたたちが危険になる。だから──」
言いかけた言葉を遮るように、日野はローズマリーを抱きしめた。
「大丈夫。私たちは、大丈夫だから。絶対に死んだりしない。約束するよ」
「ショウコ……」
「まあ、余計な心配はするなってことだ。あまり気にしてるとストレスでシワが増えるぞ」
「ボクもそう簡単に死ぬつもりはないから、安心していいよ」
日野たちの言葉に、ローズマリーは小さな声で、ありがとうと呟いた。
彼女は、自分の死より、周りの死を一番に恐れている。本人の口から、直接過去を聞かせてもらったことで、それがわかった。だから、絶対に一人にはしない。
「一緒に行こう」
日野がそう言って、四人と一匹は再び歩き出した。
いつか離れようと、共にいられる今この瞬間を大切に。そう心に誓い、日野は一歩一歩を踏みしめながら、先を急いだ。