百四十四 橙
考えごとをしながらベッドの上でごろごろと寛いでいると、聞き慣れた声が遠くから近づいてきた。
なにがそんなに楽しかったのか、ハルとローズマリーの歌声が聞こえてくる。しかし、日野の声は聞こえない。
あいつは陽気に歌うようなタイプではないか……そんなことを考えながら、目を閉じたまま寝返りをうった。
すると、ガチャリと扉の開く音がして、三人と一匹が帰ってきた。静まり返っていた部屋が、途端に騒がしくなる。
起きたほうがいいだろうか。いや、今日は休んでいいと言われている。このまま眠っているふりをしていよう。
そう思って目を開けずにいたが、突然鼻の中に飛び込んできた生臭い匂いに、グレンは勢いよく身体を起こした。
「グレン! 見て見て! お魚〜!」
「うわ、くせぇ。近づけるんじゃねぇよ、バカ」
目の前には、両手に魚を持ち、ニコニコと楽しそうに笑うハルがいた。
眠っている相手の鼻に生魚を近づけるなんて、普通しないのではないか。幼い彼の行動に呆れながらも、グレンはハルの手元をジッと見つめた。
しっかりしているように見えて、たまにおかしな行動をする。これだから子供には油断できない。しかし、ボクが選んだんだと自慢げに見せてくるその姿は憎めなかった。
「……なかなか良い魚じゃないか。それで飯を作るんだろ? 早くあいつらに渡してこい」
選んだ魚を褒めると、ハルは満足そうな顔をして、日野とローズマリーのいる方へ駆けて行った。
それからしばらく経っても、部屋の中は騒がしいままだった。というより、キッチンが騒がしいのだ。
おぼつかない包丁の音が恐ろしい。指は十本で足りるだろうか。全滅する前に夕食が出来上がるといいが……。
そんなことを考えながら、ベッドに仰向けに寝転がった。頭の後ろで腕を組み、ボーッと天井を見つめると、昔の記憶が蘇ってきた。
──私なんか、私なんか
顎の辺りまである橙色の髪を揺らしながら、泣き続ける女の姿が浮かんだ。その時、目の前にあったはずの天井が、一瞬で灰色に変わり、顔の上にもふりと柔らかいものが落ちてきた。
もふもふと柔らかい毛が顔に当たって息苦しい。グレンは、顔にしがみついているアルを摘むと、無理矢理引き剥がした。
「お前はなんで俺の顔にばかり飛び乗るんだ」
そう言いながら、アルを自身の胸の上にそっと乗せた。すると、彼は小さな指で日野たちのいる方を差して、首を傾げた。
気になるの? と言っているようだ。
「そりゃ、少しはな。素人ばかりだから時間もかかるだろうし、まともな料理になるかどうか……。チーズや苺だけで満足できるお前が羨ましいよ」
ぐりぐりと頭を撫でてやると、アルは嬉しそうに目を細めた。
肌触りのよい灰色の毛を触りながら、ふと、グレンはキッチンの方へ視線を向けた。彼女たちは相変わらずモタモタしているようだ。
お菓子ばかり作っていたために、家庭料理など全くできない。だが、やる気だけはある女。自分もやりたいと言い出してその場を荒らす子供。そして、そんな二人に振り回されてアタフタしている料理初心者の女。
気にならないわけがない。ちゃんと食べられるものが出てくるのか不安だ。しかし、自分が狭い簡易キッチンに手伝いに行っても、更に作業がし辛くなるだけだ。
楽しそうにしていることだし、ここはあいつらに任せておこう。
「お前も少し休め、アル」
そう言って、グレンは目を閉じた。
あの男。偶然にもアドルファスに会ってしまったあの時から、過去の記憶が蘇ってきていた。
もう忘れようとしたはずの、あの女のことが。あの女の姿が。しまったはずの記憶の奥底から引き摺り出されていくような感覚だった。
にこりとも笑うことのなくなった暗い顔。目を離すと、どこかへ消えてしまいそうで、心配でたまらない。周囲に馴染むことを恐れ、不器用で、口下手で……。
グレンはフッと息を吐いて、組んでいた腕を外すと、顔を両手で覆った。
「…………ごめんな」
そして、か細い声で、そう呟いた。