百四十二 大切な人
少し歩くと、宿はすぐに見つかった。外観は古い建物だが、中は綺麗で落ち着いた雰囲気の宿だった。
四人部屋を取ったあと、グレンはローズマリーを日野とハルに任せて部屋を出ていった。
そのため、残された三人はテーブルで紅茶を啜りながら彼の帰りを待っていた。
日野は、甘いお菓子を頬張るハルを見ながら、迷っていた。グレンとあの男のこと。二人の間に何があるのか、ハルは教えてくれると言っていたが、聞いてしまって良いのだろうか。でも、このままモヤモヤした気持ちでいるよりは、知ってしまったほうが良いのかもしれない。
意を決して声をかけようとした時、ハルが先に話を切り出した。
「そういえば、さっきのあのおじさんだけど。あの人の名前は、アドルファス・ベル。ここから少し離れた街のお医者さんで、ザック先生のパパだよ」
「ええっ!?」
思わず大きな声を出してしまい、日野は慌てて口を塞いだ。まったくの予想外だった。驚きのあまり、次の言葉が出てこない。
日野はそのまま宙を見上げ、男の姿を思い出した。言われてみれば、背はザック先生と同じくらい高かった。若くはなかったが、顔立ちも整っていたように思う。
だが、にこやかな笑みを浮かべるザック先生と、冷たい眼差しのあの男が親子だとは到底思えなかった。
日野が黙ったままでいると、向かいに座るローズマリーが小さなため息を吐いた。
「あの病院の……どうりで態度が悪いわけだわ」
「ローズマリーは知ってるの?」
「知ってるも何も、私のお母さんが出産のために入院したのがベル家の病院よ。そして、アイザックさんのお父さんはベル家の現当主であり、一族が経営する病院の院長。ベルの病院は、医師から看護師、受付嬢まで、そこで働く全員が美男美女。見た目もよくて腕も一流。まるで天国のように思えるけれど、高い治療費を請求するから、あまり評判はよくないわ」
「そうなんだ……グレンも、ザック先生のお父さんをよく思ってないの?」
日野がハルに視線を移すと、ハルはコクリと頷いた。
「うん。……グレンにはね、大切な人がいたみたい。でも、その人は普通の病院では助けられない病気だった。だからベルの病院に行ったけど、お金が払えなくて、そこで治療を受けられなかった。……ボクが知ってるのは、それだけ」
そう言って、ハルは紅茶を啜る。日野も、心を落ち着かせるために温かい紅茶を口に含んだ。
ハルが言った、グレンの大切な人。それは家族だろうか。それとも、恋人だろうか。その人は、まだ生きているのだろうか。
彼の過去に少し触れたことで、知りたいという欲求と、これ以上踏み込んではいけないという気持ちが、日野の心の中で渦巻いた。
すると、キャンディの包みを開けながら、ローズマリーがぽつりと呟いた。
「でも、どうしてアイザックさんは跡を継がずに自分の病院を作ったのかしら? 仲が悪いの?」
「んー……その辺りはボクも知らない。グレンもザック先生も、あまり昔のことは話したがらないから」
「そう……。まあ、人って色々あるわよね」
丸いキャンディを口の中に放り込み、ローズマリーはうんうんと頷いた。そして、ふと、向かいの席に座る日野を見つめて、微笑んだ。
「ショウコ」
「……え? あ、ごめんなさい。どうかした?」
「このキャンディ、美味しいわよ。食べてみて」
「あ……うん。ありがとう」
手渡されたキャンディを口に含むと、日野の表情が少し柔らかくなった。美味しいと言いながら、ころころと転がしている。そんな日野を見て、ローズマリーはホッと胸を撫で下ろした。
先程まで、日野の表情が強張っていた。声をかけられて気がついたところを見ると、無意識に考え込んでいたようだ。
知らなかった相手の過去を知るのは怖い。グレンの大切な人……家族という言い方をしないということは、恋人かなにかだろう。
もし、聞かされていない刻の過去を知ることができるとなったら、自分は知りたいと思うだろうか。
もし大切な人というのが、家族ではなく、刻の愛した人のことだったとしても。それを受け入れることができるだろうか。
その人が生きていたとして、愛した人の元へ刻が戻ってしまったら……離れていく彼の背中を、黙って見送ることができるだろうか。そう考えると、胸が締め付けられた。
ショウコとグレン……過去のせいで引き裂かれる二人を見たくはない。だが、この先のことは彼女たちの問題だ。
「見守ることしか出来ないわね」
耳に届かないほどの小さな声で、ローズマリーは呟いた。そして、甘い口の中に紅茶を少し含んだ。