百四十一 冷たい眼差し
降り立った場所からほど近いところに、その街はあった。今まで見てきた街よりもずっと人通りが多く、ガヤガヤと賑わう大きな道を、四人と一匹は歩いていた。
辺りには香ばしい焼き魚の匂いが漂っている。日野はくんくんとその匂いを嗅ぎながら、幸せそうに溜め息を漏らした。
川の傍にあるためか、辺りには魚を扱う店がずらりと並んでいた。露店に並べられた鮮魚が、太陽の光でキラキラと輝いている。
まだ日暮れまでは少し時間がありそうだ。今日はこのまま進むのだろうか。前を歩くグレンに、これからのことを尋ねてみよう。
そう思い、日野は少し早足で歩いた。
「グレン、今日はこのまま次の街まで進むの?」
「いや、ここで一泊する。このまま向かうと、たどり着く前に日が暮れるだろうからな」
「そっか。ハルの街はここから遠いの?」
「ああ。明後日くらいには着くんじゃないか? ほら、ここだ」
そう言いながら、グレンが地図を見せてくれた。受け取ったそれを眺めながら、街の中を歩いていく。
しかし、見慣れない地図はよく分からない。日野は赤い印の付いた場所から指を滑らせて、これまでに訪れた街を辿っていった。
ブツブツと独り言を呟きながら地図を見ていると、ふと、自分が早足ではなくなっていることに気がついた。
そして地面の方へ視線を移すと、隣を歩くグレンの歩幅が小さくなっていた。いつの間にか、彼は歩く速度を合わせてくれていたのだ。
「あ……ごめんね。歩くの遅かったよね」
「ああ。遅ぇなって思ってた」
慌てて謝ると、彼はフッと笑って、地図を取り上げた。
「前見ながら歩け」
「う……ん。ありがとう」
穏やかな声音に、トクトクと心音が速くなった。
グレンに出会った頃は、拒絶されているような鋭い視線に恐怖を感じたこともあった。あの時は、彼がこんなにも優しい顔をするなんて知らなかった。
しかし今は、少しずつグレンという人を知ることが出来ている気がする。そう思うと、嬉しくなった。
日野は高鳴る胸を押さえて、前を向いて歩き出した。すると、背後から熱い視線を感じた。
冷や汗を流しながら、足を止めて恐る恐る振り返る。そこには、口元に手を当て、ニヤニヤと笑うハルとローズマリーがいた。
「お熱いわね」
「お熱いわね」
同じ口調でからかう二人の声に、グレンも足を止めて振り返った。
「お前ら、いつか仕返ししてやるからな」
「出来るものなら、やってごらんなさい」
「やってごらんなさい」
「……言ったな? 覚悟しておけよ」
騒がしい街の中で、三人は更にわいわいと騒がしく言い争いはじめた。そんな彼らを微笑ましく思いながら、日野は宿を探すために再び歩き出した。その時、
──ドンッ
勢いよく誰かとぶつかった。その衝撃で倒れそうになり、よろよろと後退りする。
体勢を整えながら顔を上げると、目の前には、背の高い男が立っていた。見た目は五十代くらいだろうか。シワひとつ無いスーツに身を包んでいる。
その男は、不愉快だと言わんばかりにジロリとこちらを見た。凍ってしまうような冷たい眼差しに、強い圧迫感。グレンや刻と出会った頃とはまた違う恐怖が、日野の身体を硬直させた。
「邪魔だ」
男は低い声でそう言うと、片手で日野を突き飛ばした。倒れかけた日野にグレンが気付き、その身体を抱き留める。
「す、すみま──んぐっ?!」
男に謝ろうとした日野の口を、グレンが押さえた。
去っていった男の背中は、人混みに紛れ、道を曲がったところで見えなくなった。
息ができず苦しくなった日野は、力無くグレンの手を叩いた。大きな手がパッと離れると、新鮮な空気が肺へと送り込まれる。
ゆっくりと呼吸を整えたあと、日野は首を傾げた。
「グレン、ありがとう。でも、どうしたの? 私なにかまずいこと言おうとした?」
「……あの男に謝る必要はない」
「え?」
「行くぞ。今日は早めに宿を決めて身体を休める。ローズマリー!」
「なあに?」
「離れるなよ」
「わかってるわ」
グレンは怒ったように、ズカズカと足早に歩き出した。その場に残された三人は、彼の後を追って走り出す。
日野がグレンの背中を見つめながら眉をひそめていると、パタパタとハルが傍に駆け寄ってきた。そして、日野とローズマリーの手を引いて、立ち止まるよう促した。
走るのをやめて女二人が耳を傾けると、ハルは小さな声で囁いた。
「あとで、ちょっとだけ教えてあげる」
その言葉を聞いて、日野とローズマリーは目を見合わせた。
一体、あの男性とグレンの間に何があったのだろうか。どうしてそんなに怒っているのだろうか。なにか言いたくない事情があるなら、そっとしておくべきなのか……。
突然の出来事に戸惑いながら、日野は再びグレンの背中を追って走り出した。