百三十三 望み
うるさい。複数の男の声がする。お腹も空いた。なんだか額が痛い。目を開けたい気もするが、開ける気になれない。ふかふかと肌に触れる布団が心地良い。いま体勢を変えたら、この感覚がなくなってしまいそうだ。ここがどこだか分からないが、もう少しこのままで眠っていよう。
うるさい。近くで鼻歌が聞こえはじめた。誰だろう。私の身体を拭いて、服を替えてくれているようだ。でも目を開ける気にはなれない。もう少し、もう少し眠っていたい。
「あげませんよ? ここは私の病院ですから、食事も徹底して管理させていただきます。しばらく甘いものは禁止です」
うるさい。声が大きい。そして服を替え終わったというのに、鼻歌も止まらない。いつまでご機嫌でいるのだろう。
「うるさいなあ」
ポツリとそう呟いた時、すぐ傍でひときわ大きな声がした。
「ザック先生!」
ガタンと何かが動いた音に、パタパタと駆け寄ってくる足音。心地良い感覚を邪魔され、ルビーは渋々目を開けた。
目の前には白衣の男女がいた。男のほうはなんだか見覚えがある。そしてその奥には、驚いたような顔をして刻が立っていた。
なんだろう……私は刻に何か言おうとしていた。刻に……刻に……。
思い出そうとした時、ふっとローズマリーの笑顔が浮かんだ。ルビーは勢いよく上体を起こすと、刻に向かって叫んだ。
「ローズマリーは!?」
「目が覚めたか。ローズマリーはあの街に残った。ここにはいない」
「なんで!? どうして置いてきたりしたの?」
「ローズマリーが望んだことだ。今は憧子たちが傍にいる」
そう言って、刻が視線を逸らせた。
ローズマリーが刻と離れることを望んだ……そんなはずがない。あのフード男のせいだ。あのフード男が余計なことを言ったからだ。あいつのせいで二人は……。
怒りと悔しさで、力任せに毛布を握り締めた。すると、小さな拳に、大きな手がそっと触れた。
「おはようございます、ルビーちゃん。お腹空いたでしょう? 取り敢えず、軽くごはんを食べましょう。話はあとでゆっくり聞かせていただきます」
目線を合わせるように屈んで、白衣の男がそう言った。
この笑顔……やはりどこかで見たことがある。記憶を手繰り寄せて、ハッと思い出した。服装は違うが、かぼちゃの街で会った男だ。アイザックという名前で、医者をしていると言っていた。あの時は、血塗れだった刻を助けてくれた。そして今は私を……。
医者はあまり好きではない。だが、この人はショウコたちとも知り合いのようだった。刻が警戒している様子も全くない。信じても良いのか?
心に不安を残しながら、ルビーはコクリと頷いた。
◆◆◆
病院のごはんは野菜や魚中心で、想像以上に薄味だった。美味しいかと聞かれたら、別に美味しくはないと答えるだろう。だが、好き嫌いのないルビーは、すぐにそれを完食した。
ここに来るまでのこと、刻が熱を出していること、ローズマリーのこと。食べている間に、二人からいろいろと話を聞いた。
たしかに、ローズマリーは刻に残ると言ったかもしれない。しかし、やはりそれが本心だとは思えなかった。
ルビーは、オリバーといた地下での出来事を二人に話した。「捨てられた」「刻は助けに来ない」オリバーはローズマリーにそう囁き続けていた。
苦しそうに涙を流し続けるローズマリーの姿を思い出し、ルビーの目に涙が溜まっていく。そしてルビーは、オリバーの言葉を刻にそのままぶつけてみることにした。
「ねぇ、刻。ローズマリーと手を繋いだことある?」
「なんだそれは。そんなこと──」
「大事なことなの! どうなの!?」
「……ない」
「キスしたことは? 抱き締めたことある?」
「あるわけないだろう。俺は──」
「刻は、ローズマリーのこと……好きじゃないの?」
震える声で、そう尋ねた。驚いたような刻の表情がぼやけていく。赤い瞳から涙がこぼれ、頬を伝い落ちていった。
二人に一緒にいてほしい。仲良くしていてほしい。両親にさえ抱かなかった感情が、堰を切ったようにあふれ出した。
いい暮らしをしたいわけじゃない。どんなに苦労したって構わない。ただ、二人には仲良くしていてほしかった。望んでいることは、それだけだった。
しかし、刻がルビーの問いに答えを出すことはなかった。