百三十二 婦長
寝ろと言われたが、もう目が覚めてしまった。
あの後、アイザックは用があると言って部屋を出て行った。彼の言った通り、熱はまだ下がっていないようで、頭がぼうっとする。それでも横になる気にはなれず、刻は診察用のベッドにジッと座っていた。
──どのくらいそうしていただろうか。なにもない静かな時間を過ごしていると、ガラリと扉が開いて、アイザックが帰ってきた。
「忙しそうだな」
そう言って、バタバタと慌ただしく動く姿を見つめていると、彼がこちらを向いた。
「私はいろいろとやることも多いんですよ。住所不定無職のあなたたちと違って」
爽やかな笑顔からトゲのある言葉が飛んできた。しかし、よく考えると確かに自分の周りには仕事も家もない人間が多い。似たもの同士が集まりがちなことを、なんと言っただろうか……。
その言葉を思い出そうと宙を見上げていると、奥のベッドで眠っているルビーが寝返りをうった。
刻はハッとしてそちらへ視線を向けたが、ルビーが目を覚ます様子はなかった。小さな額に巻かれた包帯が痛々しい。
結局、自分はオリバーを倒すことも、ローズマリーやルビーを守ることもできなかった。そんな思いが頭を過り、刻は顔を伏せた。
すると、仕事が一段落したのか、アイザックが欠伸をしながら近づいてきた。
「ルビーちゃんのことが心配ですか?」
「心配などしていない。気になっているだけだ。アイザック……ルビーはなぜ目覚めない?」
「そうですねぇ。外傷、ストレス、栄養の偏りに睡眠不足……言い出したらキリがありません。ですが、検査したところ命に別状はありませんでした。まあ、そのうち目を覚ましますよ。はい、これ」
眠そうな顔でバサリと手渡されたのは、アイザックの服だった。鼻を近づけると、彼の匂いがした。
この匂いも昔から好きではあるのだが、今はもっと甘く柔らかい匂いの服が好きだ。そう思った時、ふと頭の中にローズマリーの姿が浮かんだ。しかし、それをかき消すように、刻は頭を左右に振った。
「服の大きさは私とほぼ同じでしょう? 汚れたままだとよくないですから、着替えてください。朝食はそのあとで。あと、ルビーちゃんの服は婦長に替えてもらいます。そろそろ来るはずですが……」
──コンコン
アイザックの視線が扉へ向いた時、誰かがそこを叩いた。どうぞ、と彼が声をかけると、品の良いノックの音とは正反対の恰幅のいい女性が入ってきた。
ずしずしと歩くその姿は、おばちゃんという言葉がよく似合う。女性は刻の顔を見て、手の甲を額に当てる仕草をした。
「あらやだ。ザック先生も男前だのに、こんなに綺麗な男の子がいるなんて! 一足先に天国にでも来ちゃったかしら?」
この人がアイザックの言っていた婦長だろう。
ガハハと豪快に笑いながら、彼女は大きな紙袋をアイザックに押し付けた。
そして、子供用の赤いワンピースとタオルを持って、ルビーに近づいていった。ベッドの側まで行くと、彼女はふと刻に笑顔を向けた。
「ゆっくりしていきなね!」
そう声をかけて、婦長はカーテンを閉じた。カーテンの向こうから、ご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。
……なぜ俺の周りにはこうもクセのある人間しか集まらないのか。いや、俺のせいではない。むしろこの医者の周りにそういうのが集まっているのではないだろうか?
ジロリと視線を向けると、アイザックは、婦長に渡された紙袋の中身を見ていた。嫌なものでも入っていたのか、眉間に皺を寄せている。
「それはなんだ」
「これですか? 貰い物です。最近、好きな人にお菓子を渡すと恋が叶うなんて言って、女性たちの間で流行っているらしいですよ。でも私、甘いもの苦手なんですよね」
甘いもの……そういえば彼は昔からよく贈り物をされては嫌な顔をしていた。そして、その中でもとりわけ嫌いなものがチョコレートだった。とすればもしかして、その大きな袋の中には大量の……
「チョコレ──」
「あげませんよ? ここは私の病院ですから、食事も徹底して管理させていただきます。しばらく甘いものは禁止です」
チョコレートなら俺が食べてやろう。言いたかったその言葉は、無情にも遮られた。甘いもの禁止という地獄を味わうくらいなら、出て行ったほうがマシだとさえ思うが、ルビーが目覚めない以上、ここを動く気にはなれない。
甘いものを食べさせろという刻の視線と、絶対に食べさせないというアイザックの視線が火花を散らしていた。その時だった。
「ザック先生!」
室内に婦長の大きな声が響いて、勢いよくカーテンが開けられた。そして、立ち上がった刻の視線の先で、ルビーの瞼がゆっくりと開いた。