百三十一 おはよう
とある街の病院。その厨房で、ぐったりとテーブルに突っ伏している医者がいた。飲みかけの酒が入ったグラスを片手に持ったまま、彼は動こうとしない。寒さを誤魔化すための毛布も、肩からずれ落ちていた。
「何もする気が起きませんね……痛いし」
暗がりで揺れる蝋燭の炎に向かって、そう呟いた。
フードの男に受けた傷はまだ癒えず、身体中が痛い。奴と戦った街で治療を受けて、目を覚ますとすぐに自分の病院があるこの街へ戻った。その後、休む間もなくナースたちに叱られ、溜まった仕事を目の前に積み上げられ、今日までその処理に追われていた。
白衣の天使だなんて一体誰が言ったのか……あれこそ鬼だ。怒り狂ったナースの顔を思い出すと寒気が増した。
しかし、それももうおしまいだ。死ぬ思いで片付けたおかげで、時間には余裕ができた。明日から仕事はほどほどに、身体を休めよう。そう心に決めて、蝋燭の火を吹き消した。そして、辺りが真っ暗になり、途端に襲ってきた眠気に目を閉じかけた時だった。
──ギギギ
表の出入り口が開く音がした。
こんな時間に……急患だろうか? 音のした方をジッと見つめ、目を覚ますために頬を叩くと、ランプに火をつけた。
厨房を出て、真っ直ぐ進めば出入り口だ。足早にそこへ向かうと、開いた扉の向こうに背の高い人影が見えた。子供を抱えているようだ。
「どうかされましたか?」
声をかけると、ゼェゼェと息を荒げたその人は、膝から崩れ落ちた。
「ちょっと、大丈夫で──!? 刻?」
無意識に駆け寄ると、手に持っていたランプの炎が、人影を照らした。そこには、顔を真っ赤に火照らせた刻と、意識のないルビーが倒れていた。
すぐに脈を確認し、ルビーが生きていることにホッとしたが、刻は呼吸が乱れたままだった。呼びかけても、返事がない。彼の白い前髪をかき上げて額に手を当てると、そこは炎に触れたかのように熱かった。
目を閉じたまま動かない刻の姿に、チッと舌打ちをすると、ルビーを抱きかかえた。幼い身体を、急いで二階の一番奥にある自室へと運び、その後、刻も同じ部屋に運び込んだ。
幸い、院長室である自分の部屋は普通の病室よりも広い。デスクと診察用ベッドが置いてあるが、カーテンの向こうにもベッドが二つある。一般の病室をあてがうよりは、こちらの方がいいだろう。
アイザックは、冷え切った二人の身体を温めながら、一晩中看病を続けた。
太陽が顔を出し、外が明るくなってきた頃、刻が目を覚ました。すうっと鼻から空気を取り込むと、懐かしい病院の匂いがした。
まだ身体は熱く、くらくらと頭が揺れている感覚が続いている。ゆっくりと上体を起こすと、隣のベッドにはルビーが眠っていた。
刻は、その幼い顔に手のひらを近づけ、息があることを確認して、ホッと胸を撫で下ろした。
そして、ふとカーテンに視線を向けると、その隙間から人の足が見えた。匂いで誰がいるのかは分かっていたが、刻はベッドから出て、カーテンを開いた。
するとそこには、椅子に腰掛けてすやすやと眠りについているアイザックがいた。
「……起こしてやるか」
そう言うと、刻はぐっと右手を握りしめ、その無防備な寝顔に殴りかかった。
その瞬間、拳を掴まれたかと思うと、ぐるりと視界が反転した。刻は硬い床に組み敷かれ、喉元には手術用のメスが突きつけられていた。
「おはよう」
「何がおはようだ。貴様は人の起こし方も知らないのか?」
寝起きの不機嫌そうなその態度に、刻はフッと笑みを浮かべた。楽しそうな刻の表情に、アイザックが眉を寄せる。
「どうした? 俺の顔に何かついているのか?」
その質問に、刻は目の前にある顔を指差して、短く答えた。
「口調」
「…………あ」
ハッと我に返ったように、アイザックは小さな声を上げた。そして誤魔化すように咳払いをして、手のひらを刻の額に当てると、すっと立ち上がった。
「……熱も下がっていませんし、まだ明るくなったばかりです。あなたはもうしばらく寝ていてください。何があったのかは後で聞きます」
何事もなかったかのようにそう言って、アイザックは背を向けた。そして、苦しそうに胸の辺りを押さえた。オリバーに受けた傷はまだ癒えていないようだ。
自分と違い、普通の身体である彼の背中を見つめながら立ち上がると、刻は診察用のベッドに腰掛けた。