百三十 前触れ
昨夜の喧騒が嘘のように、早朝の街は静かで、街の中央にある時計が時を刻む音だけが聞こえていた。あれほど濃く漂っていた酒や香水の匂いもすっかり消え、人気もほとんどない。
冷たい風に吹かれながら、四人と一匹は宿の前に集まっていた。全員、準備は整っている。普段であればまだ目の覚めきっていないはずのグレンも、妙にスッキリとした顔で、今日は寝起きがいい。
その隣で、落ち着きのない日野が顔を隠すように地図を広げていた。
「つ、次の街は……また一日歩くのか……そっか」
そうブツブツと独り言を言いながら、なるべくグレンの方を見ないようにしている。
目が覚めても、昨夜のことはしっかりと記憶に残っていた。彼の甘い言葉や表情、体温から匂いまで鮮明に思い出せる。無意識に赤くなっていく頬を隠すために、地図を顔に近づけた。
──日野さん、あなたはくれぐれもお気を付けて
かぼちゃの街で身体のことを相談したとき、アイザックはそう言った。そして、その意味深な笑顔の理由がようやくわかった。
今までに経験したことのないような強い快感が頭と身体を支配し、何度も何度も彼を求めてしまった。
相手がグレンだったからというのもあるが、こんな身体で万が一誰かに襲われでもしたら……。
日常生活に支障はないとアイザックは言っていたが、それとこれとは話が別のようで、いささか不安を感じた。
しかし、ローズマリーならともかく、自分が襲われることはないだろう。それよりも、またグレンと二人部屋になる日があるとするなら──
「嬉しい。けど……ザック先生。私の身体、どうしたら……」
そう呟いたとき、持っていた地図を上から取り上げられた。あっ、と小さな声を上げると、目の前には愛しい彼の顔があった。
「顔赤いぞ。熱か?」
地図をしまった彼が、前髪をかき上げ、額を当てて確認した。その行動に、日野の頬は更に熱くなった。
熱が無いことなど、彼なら見た目だけでも判断できるはずなのに……意地悪だ。
なんと言い返してやろうか。次に口から出す言葉を考えていると、下の方から呆れたように吐き出された溜め息の音が聞こえた。
「すみませんが、イチャつくのはそのくらいにしていただけますか?」
二人が声のした方へ視線を向けると、頬をふくらませたハルとアルがじっとりとこちらを見つめていた。
傍にはローズマリーもいて、彼女は口元に両手を当てながら、ニマニマと笑みを浮かべていた。
「ええと……二人とも、待たせちゃってごめんね。早く先に進もう」
日野は、そう言ってハルと手を繋ぐと、歩き出した。チラリと後ろを振り返ると、グレンとローズマリーが話しながら後をついてきている。進む方向が間違っていなかったことにホッとして、前へ向きなおした。
それからまた、日野たちは雪道を歩き続けた。道中でオリバーの匂いは感じられず、鈴の音にアルが反応することもなかった。
グレンに撃たれたあの日、オリバーは姿を消したようだが、ローズマリーのことは諦めたのだろうか。
今は何事もなく先へ進むことが出来る。なぜだかそれが、嵐の前触れのように感じた。
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